阪急甲陽線

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甲陽線(こうようせん)は、阪急電鉄が大正時代末、阪神電気鉄道に喧嘩を吹っかけられたのでノリで敷設してしまった鉄道路線である。

路線の概要[編集]

現在は兵庫県西宮市の高級住宅地を駆け抜ける、通学生主体のローカル線と化している。

その性格ゆえ、開業以来他線への直通列車など設定されたためしがなく、今でも3両編成である。更に単線のうえ、やたらにカーブがきつく速度も出せない。某作品では神戸線を走っている8両編成の電車が甲陽線の水道路踏切辺りを時速200キロ近い速度で走行するシーンがあったが、実際にそんなことがあったら2005年4月25日のJR福知山線塚口駅付近の再来、もしくはそれ以上のモノとなるのは間違いない。

それどころか起点の夙川駅では、連絡線が伊丹線の塚口駅構内と同様に路面電車並みの異常な急曲線を描いており、高規格の神戸線とは対照的に路面電車として敷設した経緯を感じることが今でもできる。

そして終点の甲陽園駅も、踏切の直後に左カーブがあったと思えば、いきなりポイントを通過しそのまま市営自転車置き場脇にある終点に突っ込むとんでもない構造になっていて、2008年9月20日に脱線事故を起こした。しかし奇跡的に怪我人一人もなかった。県立高校の文化祭で上映する予定の映画を撮影中の生徒ら数名が、この脱線事故を目撃していたとのことだが、運悪くテープには録画されていなかったので、事故の真相は闇の中である。

さらに甲陽線を他線と隔離したいのであろうか、神戸線の西宮北口方向からは3回、三宮方向からでも2回折り返しをしないと車両を同線には送り込めないようになっており、また折り返し線の長さも3両が入れる分だけの長さしかなく、物理的にも8両編成を組む神戸線との直通運転は伊丹線や今津線と違って不可能となっている。


なお、終点の甲陽園駅は駅から徒歩30分程度のところにある甲山を名の由来とした高級住宅街・甲陽園に因んでのものである。昨今、甲陽園を光陽園(「陽の光」と誤解したものか?)とか紅葉園(そりゃ焼失した廃墟の名称だ)と誤記する者が増えているので、注意を要する。


しかし、終電は24時ぐらいまで運転されているが、使う人がいるのだろうかと突っ込んだら負けである。

敷設経緯[編集]

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上に記したとおり、甲陽線を阪急が建設したのは阪神への対抗と、その場のノリに基づくものであった。以下にそれを記す。

神戸線の開業に合わせ、夙川の沿岸では宅地開発が進められたが、それと並行して甲陽園の辺りでは映画撮影所や動物園、料亭などが設けられ、行楽地としての発展も見せるようになっていった。

一方、阪神電気鉄道は夙川を越えたところに当時あった温泉地の苦楽園へのアクセスを図るとともに、阪急の開業以来同社に押されっぱなしで利権をいろいろ損なわれていたので、一矢報おうと夙川のたもとの香櫨園駅から苦楽園まで、当時は最新鋭のものと看做されていたトロリーバスを敷設することを発案した。

これで既に大正時代の段階で形成されつつあった阪神は阪急より野暮であるというイメージを変えることができるし、阪急電車の乗客にバスを活用して阪神の広告を見せ付けることもできるわけで、阪神は相当乗り気になっていた。

しかし、甲陽園の開発等で利権形成中の阪急にとっては看過できる話であるはずがない。そのためトロリーバスよりも定時性が確保できる100%専用軌道を走る路面電車として甲陽線の敷設を決めたのだった。夙川と甲陽園を結ぶこの路線が開業したのは1924年(大正13年)であるが、翌年には苦楽園口駅なる西宮北口駅同様に苦楽園からやたら離れた所にあるペテン名の駅を中間に新設し、現在の姿が形成された。

だが阪神は自力で甲子園を切り開いたことで、苦楽園や甲陽園への興味を失ってしまって計画をチャラにしてしまい、甲陽線は梯子を外された格好になった。甲陽園が漁夫の利を得ただけである。それどころか昭和になると両園とも洪水等の影響で衰退消滅してしまい、甲陽線は沿線に大した資源もないお荷物存在と貸した。

阪急では開業させたもんは活用せなしょうがないと、甲陽園の宅地開発に加え、今津線同様に相当の定期旅客が見込める学校を沿線に誘致した。夙川学院はその代表であり、終点の甲陽園駅に専用ホームがあることなどはこの路線の性格を良く示している。

途中駅[編集]

夙川で神戸本線と連絡する。

関連項目[編集]

東西線で押しくらまんじゅう.jpg この「阪急甲陽線」は、延伸の案が出ています。延伸して下さる協力者を求めています。 (Portal:スタブ)