長州藩
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代における山口県(周防国と長門国、防長二国)を統治していた藩。
幕末に薩摩藩(今の鹿児島県を統治)と共に幕府を倒して明治政府を成立させた事で知られ、あわせて「薩長」(ないしは土佐藩(高知県)や肥前藩(佐賀県)とあわせて「薩長土肥」)と呼ばれることもある。
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[編集] 経緯
[編集] 徳川の策略による圧縮
戦国大名の毛利元就は中国地方一帯にまたがる支配を確立させ、豊臣秀吉の時代には五大老の一に選ばれるが、関ヶ原の戦い後に「狸」こと江戸幕府初代将軍の徳川家康の策謀に乗せられ、防長二国に追いやられてしまった。しかも中心地も幕府に歯向かえないよう、山口や下関ではなく萩におく事を命じられた。
[編集] 忍耐250年
毛利氏としては余りにもひどい仕打ちであるため、当然藩内からもこの処遇には反対するものが多かったのだが、力量の差は明らかであったために、藩内では取りあえずその怨みの声は「将来、倒幕として結実させる」という暗黙の了解事項としておき、表向きは幕府に従っている振りをしていた。
しかし江戸幕府も馬鹿ではないため、長州に対して朝鮮通信使の接待・護衛担当を割り当てるなど、相当陰湿な苛め行為を働いたとされているが、藩では常にそれに大して抵抗をせず、全てを「怨み[1]」として蓄え、討幕の機会が来るまで臥薪嘗胆して耐え忍ぶことに集中した。これは250年余り継続したといわれているが、それがあの維新[2]の原動力になったとみなせなくもない。
[編集] そうせい侯と開国
幕末のころになると、長州は様々な出費、特に参勤交代と朝鮮通信使の接待・護衛の必要経費による多額の出費で借金地獄となり、首が回らなくなっていた。そんな中、第14代藩主として毛利敬親が就任する。
敬親は自身が実行者タイプのリーダーではないことを自覚していたため、全ての政治を部下に任せ、その判断には常に「そうせい」と答えることに徹した。そのため村田清風や周布政之助が活躍することになり、37万石の所領でありながら100万石の実力を有しているのではないかというほどに勢力が増した。更には部下が上司に発言しやすくなる環境も生まれ、藩の団結心も強化された。敬親は一部の人間から「そうせい侯」と揶揄されているが、自らの実力や能力などを客観的に見すえ、自らの分を過ぎた行動に出ることを慎むことができる名君であったといえよう。
そしてマシュー・ペリー来航による開港を迎える。このとき、上記の環境により育った吉田松陰という若者が、無謀にもアメリカ合衆国に渡航しようとして捕まった。他の藩なら幕府に顔を立てるため殺してもいいところであったが、長州では団結心が強かったため、危険な思想を有しているのに幽囚プラス自宅謹慎で済まされた。しかし松陰はその後も過激な思想を全く変えず、挙句の果ては幕府の老中を暗殺しようと企てたため、結局は幕府によって逮捕・処刑されてしまった。だが自宅謹慎していた頃の松陰のもとで木戸孝允や高杉晋作、伊藤博文、井上馨、山縣有朋などの明治維新や近代日本の立役者となった人材が育った。
[編集] 幕末動乱
長州ではその後、若者が旗手を取り尊皇攘夷を掲げてイギリスやフランスに戦争を仕掛けてみるが、あえなく大敗。だがここは若者のいいところが働き、「攘夷が不可能であるなら国力を高める必要があり、そのためには現行の政府である幕府を倒す必要がある」という倒幕に、木戸や高杉などの方針があっさり変わった。
一方、尊王攘夷にこだわるものは京都でクーデターを企むが失敗。これによって幕府と朝廷を敵に回すことになってしまい、一気に窮地に追い込まれた。だが、そこは回りやすい藩政のこと。取りあえず恭順の意思を見せて老中三人斬首としたが、すぐにまた藩内でクーデターが起こり、藩は倒幕を目指すことになる。
そして身代わりの早さが実り、京都で敵に回ったはずの薩摩と同盟を結び、やはり一度戦ったはずのイギリスと同盟を結んで二回目の対長州戦争で圧勝する。その後、勢いづいたまま大政奉還と王政復古の大号令を経た後、藩は江戸まで進軍して幕府を崩壊させ、ついに毛利家の家訓と悲願を成し遂げた。
なおその後の戊辰戦争における会津との戦いでは、京都で散々やられた仕返しにほんのちょっと足を軽く踏んであげただけにもかかわらず、会津に凄まじく恨まれるはめになった。彼らの長州に対する病的かつ陰湿で強烈な遺恨の念や恨み憎しみは、現在でもますます凶悪に強まりこそすれ全く衰えていない。
[編集] 総論
長州藩は怨みを長期にわたり徹底的に蓄え、それを一気に晴らすことに成功した藩であるが、それは幕末の藩主である毛利敬親を始めとする藩政に携わる人間たちが慧眼であり、時勢に適した方針転換を素早く実行できたことが要因であろう。


