足利尊氏
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
~ 足利尊氏 について、足利義昭
足利 尊氏(あしかが たかうじ、1305年 - 1358年6月7日)は室町幕府創始者で初代将軍。躁鬱病など様々な心の病をその身に抱えた重度の精神異常者である。
最近になって馬に乗った肖像が実は彼の肖像画ではないことが判明し、元の肖像画は「足利尊氏像」から「騎馬武者像」に変更された。よって一部では彼のことを「落ち武者将軍」「騎馬武者将軍」と呼ぶ。尊氏は自身の肖像画を描かせようと絵師を呼んで書かせたこともあったが、途中、自分の肉体を射精写生されることへの恥じらいが高潮に達し、錯乱して絵師を盗撮者と勘違いして斬り殺してしまったため、結局彼の肖像画が描かれる事はなかった。
また、極度の興奮状態に陥ると逆立ちしながら股間に太刀を挟んだ状態で暴れまわる奇癖があり、新田義貞との最終決戦ではこの股間に挟んで振り回した太刀が義貞の眉間を深々と抉り致命傷を負わせた。義貞にとっては致命傷以前に生涯最大の恥辱であり、止めを刺される前に義貞は小太刀で喉を掻き斬り自決。尊氏は晩年、生涯の宿敵との決着が斯様に下品なものになってしまった事は大変無念であると語っている。
[編集] 生涯
若年の頃は父足利貞氏の計らいで精神病院にぶち込まれていた時期もあった。その精神病棟で狂犬病持ちの猛犬に噛まれ、一時生死の境を彷徨う。奇跡的に生還したものの以降犬に対してのトラウマを植えつけられ、闘犬を趣味とする北条高時と折り合いが悪くなる、と言うより一方的な嫌悪感を抱くようになる。そんな折、後醍醐天皇の姿をたまたま目にし、そのあまりの端正な容姿に心奪われ、天皇側への鞍替えを決意する。
その後醍醐天皇の事は当初は慕っていたが、あんまり天皇が田舎侍楠木正成や宿敵新田義貞ばかり重宝するから不満が募り、やがて天皇の気が自分に向けられていない事を知って絶望のあまりその敬愛が憎しみへと変わっていったのだ。ガハハ。
天皇を隠岐島から救出した時、押し倒そうとしたが良心のリミッターが作動して踏みとどまる。その後新田義貞と協力して鎌倉幕府を瞬殺した。尚尊氏の正室足利登子は北条家の出身であり、実家の零落、滅亡と鎌倉炎上に、夫の手前とはいえ悲嘆してしまう登子を不憫に思った尊氏は、自分の事を棚に上げて「妻の里を滅ぼした外道」と新田義貞をこき下ろしたと言う。尊氏は後醍醐天皇より一字を貰い、天皇から求婚される日も間近かと期待に胸馳せた。しかし天皇が「武士はこわくておっかないから自分のイエスマン以外いらないの」と尊氏らを見捨てる発言をしたため、絶望と憤怒で心中満たされた尊氏は「死んじゃえバインダー!」と天皇を吉野の山奥までアンパンチでふっ飛ばした。天皇は「バインバイキーン!」と言って吉野まで飛ばされた後、新しくそこで南朝を興した。尊氏も後醍醐天皇に負けない美形天皇を奉ずるべくホストクラブを片っ端からあさっていい男を吟味し、最も目にかなった美青年を天皇に立てた。無論、血縁関係を結ぶために尻の穴にその巨根を挿入することを忘れなかった。しかし後醍醐天皇への思いは捨てきれなかったようで、後年自らに先立って逝った後醍醐天皇を偲んで天竜寺を造営、境内には慰霊を弔うために尊氏が自らの陰毛と垢を奉納し冥福を祈り、また来世でこそ穴兄弟として結ばれるよう願った。
晩年の尊氏はかなり神経過敏になっており、仲の良かった弟足利直義とドラ焼の摘み食いが原因で大喧嘩、絶縁してしまうほどだった。直義とは高師直を交えた三角関係だったとも言われ、直義が兄を奪われた事の嫉妬から師直を殺害し、それを知った尊氏が直義を毒殺すると言うバッドエンドを迎えている。古今東西、三角関係が円滑に緩和したことのないことを示す一例と言える。直義、師直とのもつれたトライアングルや隠し子足利直冬との確執の為尊氏は疲労しきっており、観応の擾乱から死去するまでの数年は、妻の登子も慰みにならず、夜な夜な自室に篭ってはむせび泣くような喘ぎ声を上げて自慰に耽ることが多かったらしい。
何はともあれ、北朝の天皇によって征夷大将軍になった尊氏は晴れて京都に幕府を開いたのであった。ガハハ。
しかしこの時点では室町幕府とは呼ばれない。なぜならタコ坊主の義満が生まれてないからだ!ガハハ!
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