荒木又右衛門

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荒木又右衛門(あらき またえもん)とは、友人渡辺数馬の仇討に勝手に武力介入してひっちゃかめっちゃかにかき回し、友人の人生を台無しにした傍迷惑なサムライである。

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人物[編集]

この男は後世、大石内蔵助らと並んで仇討物のヒーロー、武士の鑑などと持て囃され、講談や時代劇などで主役として”36人斬り”が描かれることも多い。しかし実際の彼はゴロツキも同然の男で、夜な夜な街を闊歩しては喧嘩やカツアゲに明け暮れるようなどうしようもない荒くれ者であった。

前半生[編集]

又右衛門は伊賀の国服部郷出身であり、元は服部氏を名乗っていた。服部郷と言えば神君伊賀越えの危機を救ったというエピソードで名高い服部半蔵を輩出したことで有名だが、又右衛門の父服部平左衛門は、自分は初代服部半蔵・服部正成の落胤であると自称し、息子の又右衛門にも言い聞かせていた。無論これは平左衛門の勝手な思い込みの嘘八百なのだが、自尊心の強い平左衛門は頑なに妄信していたようだ。しかしこれにも理由がある。実際は平左衛門は荒木村重の一族であった。村重と言えば家族や家臣を見捨てて一人城から逃げ出した臆病者、というイメージが強い武将であり、平左衛門はその臆病者の一族扱いされる事を頑なに嫌い、服部の姓を名乗り、半蔵の隠し子であると主張するようになったという経緯があった。

平左衛門は始め藤堂高虎に仕えていたが、あの子にしてこの親ありというべきか、乱行狼藉が多く、「俺はかの服部半蔵の落胤よ、本来ならば藤堂の方が格下だ」などと酒に酔った勢いで口走ったため高虎の怒りを買い放逐された。その後、旧友の渡辺数馬の取り成しで姫路の池田忠雄に仕えた。この渡辺数馬は後に又右衛門が散々迷惑をかけることになる二代目渡辺数馬の父親である。又右衛門と数馬は親子の代から交流があり、又右衛門自身も数馬の姉を嫁に迎えていた。

又右衛門はその後、桑名藩の服部平兵衛の養子となる。彼は剣の腕こそ卓越していたが、如何せん政のほうはからっきしであり、戦国の世が終わった元和の世では大した役職にもありつけずうだつの上がらない日日を過ごしていた。それならそれでその立場に甘んじておけばよいものを、又右衛門は自尊心ばかりは強く、鬱憤を晴らすように狼藉三昧の日日を送り、養父や主君に対しても暴言を吐くなどやりたい放題やらかしたため当然の如く追放され浪人となる。その後は行く当ても無く故郷の服部郷に帰郷し、前にも増してうだつの上がらない日々を過ごしていた。ちなみにこの間、辻斬りをして糊口を凌いでいたという。

鍵屋の辻の決闘[編集]

そんな冴えない日々を過ごしていた又右衛門の耳に急報が届く。友人にして義弟である渡辺数馬の弟(つまり又右衛門にとっては同じく義弟にあたる)、源太夫が男色関係のもつれから河合又五郎に殺害されるという事件が起こった。源太夫は藩主池田忠雄お気に入りの小姓であり、お気に入りの小姓を殺された忠雄は憤激して即座に又五郎の首を差し出すよう命じたが、又五郎は旗本に匿われ、身柄引き渡しも拒否されてしまう。このため藩主の上意討ちの命も兼ねて、数馬が敵討ちに赴くこととなった。これを聞いた又右衛門は自らの武名を高める千載一遇の好機と考え、呼ばれても居ないのに無理矢理友人の仇討に助太刀をしに行った。又右衛門は「15歳までおねしょしてたことをバラす」などと脅し、自分が仇討に加わる事を許可するよう数馬を説き伏せた。

1634年11月7日、又右衛門と数馬は伊賀国上野の鍵屋の辻で、江戸へと向かう又五郎を待ち伏せ、討ち取った。この時、又右衛門は36人斬りの大奮闘をしたなどと講談では伝わっている。確かに又五郎は数馬らによる襲撃の話があることを耳にしており、この日護衛を付けていた。しかしその人数は11人であった。しかし又右衛門は実際に36人斬りを果たした。では残りの25人は何なのか、答えは明白、ズバリ残りの25人は味方である。又五郎側の11人に対し数馬、又右衛門達は4人で挑んだとされるがこれは大嘘で、実際は又五郎側の2倍近くの26人いたのだ(数馬、又五郎を除く)。しかし、26人もいれば手柄の取り分が減るし、何より多勢でリンチにしてるようでカッコ悪い、男が廃るという理由で、又右衛門は激闘のドサクサに紛れて次々と味方を斬り殺していったのである。その為決闘の舞台は大混乱に陥り、本来ならば一時間もかからないだろうと思われた決闘は数時間にも及んでしまった[1]。最終的に生き残ったのは数馬と又右衛門、恐怖のあまり木陰に隠れてブルブル震えていた岩本孫右衛門の三人だけであった。決着がついた後、岩本も又右衛門に斬り殺されそうになったが、岩本は又右衛門がピンチに陥った時予備の刀を投げて助けてくれた恩があったこと、基本的に良い人の数馬が必死に又右衛門を抑えた事、そして又右衛門が「一人ぐらいならいいか」と妥協した事で命拾いした。

事後処理[編集]

仇討成就の後、又右衛門は一躍、友人の仇討を果たした仁義ある英雄と称賛された。ドサクサに紛れて味方25人を斬り殺したことについては、数馬の主君である池田家(このころは移封され鳥取藩となっていた)と、伊賀でふて腐れていた時腐れ縁の関係にあった柳生一族が必死になってもみ消したため、なかったことにされた。

又右衛門が称賛される一方、渡辺数馬の方は空気扱いであり、それどころか「本来仇討を果たさなければならない立場でありながら、友人の又右衛門に泣きついて手伝ってもらい、仇討も殆ど又右衛門にまかせっきりで自分は何もしなかった」などと嘲笑する者までいた。実際は又右衛門が呼ばれてもいないのに勝手に数馬の仇討に乱入したようなものなのだが、又右衛門が持て囃されてゆく中で、いつの間にか数馬が泣きついて又右衛門に仇討を手伝ってもらった、ということになってしまったらしい。数馬にとっては踏んだり蹴ったりであり、この後二人は鳥取藩に身柄を預けられたが、心労から数馬は間もなく他界した。

一方、又右衛門の方はというと、武名を上げて益々調子に乗ったのか、次は海外にも俺の武名を知らしめてやるぜと一人海外へと旅立ち、二度と戻ってくる事は無かったと言う。その為海外へと飛び立った1638年10月5日が一応の没年とされている。

その後の又右衛門[編集]

行方不明になった又右衛門だが、実はシルクロードを通ってヨーロッパまで行き、吸血鬼の里として有名なトランシルバニアまで辿り着いていた。ここで女性の吸血鬼と結婚し(というか虜にされ)余生を過ごしたという。この女性の吸血鬼は生年月日と照合するとレミリア・スカーレット辺りが有力なんじゃないのと言われている。

ちなみにこの女性吸血鬼との間に一男を設けており、その子供は幕末の擾乱の最中に黒船に混じって父の故郷である日本へ密航し、土方歳三と名を変えて歴史の表舞台に姿を現すこととなる。その後の彼の鬼の副長としての活躍、20世紀からの漫画家としての華々しい活動についてはあえてここで触れるまでも無いので割愛する。

注釈[編集]

  1. ^ 決闘にかかった正確な時間は、講談や史料などによりまちまちで判然としない。最大では12時間とも。

関連項目[編集]