神武天皇
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
| 現人神たる天皇陛下は御自ら臣民の爲に本項の全内容を讀まれた | 本項の全文章及び全内容は完全に正しい事實として大本營により認可されてをり、 全ての臣民の爲に現人神たる天皇陛下は御自ら本項に御目を通された。 この項目の内容を疑ふことは現人神たる天皇陛下を疑ふことと同樣であり、 誤つた思想を持つとされた場合は政治犯、思想犯として内亂罪の對象とされます。 |
神武天皇(じんむてんのう。キリスト紀元前711年~キリスト紀元前585年)は、日本の初代天皇であり、大日本帝国の前身となる日本の建国者である。神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコのみこと)とも言う。
誤解されやすいが、明仁は紛れもなく神武天皇の71世の末裔である。この厳然たる事実が気に食わず、易姓革命思想を持ち込むのは大日本帝国より禁止されている。
目次 |
[編集] 先祖
神武天皇は、天照大神の来孫であり、現在の天皇家の先祖は神話に連なる神聖な王朝である。過去にも、神話の登場人物の子孫を名乗る王朝は欧州等にも存在したが、現在では、日本の天皇家のみである。
神話の終わりは常に人の世の始まりである。これは特筆すべきことであり、天皇制廃止論を唱える人間はこの重大性を何も自覚していないことになる。
[編集] 東征
日向国(現宮崎県)に住んでいたが、その後、大和国(現奈良県)に政権を開くため、兄(神武天皇は以外や以外末子である)や子と相談し、東征するが、大和に入ると現地の土豪によるとんでもない抵抗に遭う。そんなことだから、兄の五瀬命が重傷になってしまうのだ。
ところが、ここで神武天皇は奇策を思いつく。
日の神(=天照大神)の子孫でありながら、東に向かって、つまり日の方向に向かって戦うのはおかしい。だから、東に迂回して、日を背にして戦えばよいという発想である。
ならば長崎にでも王朝を作ればよいのだが、当時は大和が大都市なので仕方ない。
進路を南にとるが、五瀬命がとうとう力尽きてしまう。
その後、船で航行中に暴風雨に遭遇して、残る二人の兄の犠牲で何とかしのぐ。そして、大和に向かうのだが、未だに険しい道のりが続く。熊野国(現三重県南部)、即ち熊が出る野を経るのだが、神武天皇が住んでいた日向は熊襲の地であるから、熊野ごときにへこたれない。三本足の烏にも助けられ、終に大和で抵抗していた宿敵・長髄彦に決戦を挑む。
そして、裏切りにも助けられ、兄を失いながらも宿敵・長髄彦を斬り殺した神武天皇は、大和国を支配圏に収め、畝傍山の東南に宮殿を造った。これが大和朝廷の始まりである。又、南に広がる山々を、熊野に対して吉野(吉き野、の意)と名づけた。当時わが国には桜はまだなかった。桜のない吉野のどこがいいのやら。
[編集] その後
その後、神武天皇は76年間という昭和天皇よりも長きにわたり日本に君臨、127年(1説に137年)の生涯を閉じ、子の綏靖天皇につながり、日本武尊につながり、そして悠仁にも続くのである。…つうけど、あの時代で享年が90歳以上なんてありえないだろ!



