服部半蔵

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服部 半蔵(はっとり はんぞう)とは、聖徳太子源義経織田信長坂本龍馬山本五十六等と並ぶ、日本の歴史に燦然と輝く英雄の一人である。徳川家康の所謂「神君伊賀越え」で突如歴史の表舞台に躍り出たのを皮切りに、江戸幕府創立に寄与し、以降、500年以上にわたって歴史の様々な局面で八面六臂の活躍をした。幕府滅亡に伴って失職してしまい、一時期NEETとして路頭に迷っていたが、その人間離れした動体視力をはじめ半蔵の卓越した器量は引く手数多であり、明治維新以降はあっちこっちで便利屋的な仕事をやっているようだ。

実はONYA-NOKOであったという説もある。

その正体[編集]

500年以上生きている事から、人間ではない、つまり宇宙人、未来人、異世界人、超能力者である可能性がある。でもその割にはSOS団に勧誘されていない。多分「変わり身の術」で涼宮ハルヒの執拗な追跡から逃れているものと思われる。風魔小太郎のように、腕が自由自在に伸縮したとか、鬼のような面構えをしていた、何て話は伝わっていないので、外見は普通の人間の姿をしていたようだ。

実は市川團十郎とかみたいに、代々服部半蔵を襲名してるだけなんじゃないかとも言われてる。しかしここはアンサイクロペディアである。そんな身も蓋も、ついでに夢もない話をされても困る。

ましてや、服部半蔵はアメリカでも名が知られている日本の英雄であり、NINJAの代表である。500年以上生きてる人外だと捏造して何の問題があろう。かのウラジーミル・レーニンも、ミイラとなって未だに生き続けているのだ。国家の英雄は不老不死でなければならないという不文律が確実にあるため、服部半蔵が数百年以上生きてる不老不死のNINJAという設定を勝手に作っても、何の問題もない。むしろそっちの方が夢が広がる。

忍者のイメージを変えた男[編集]

それまで「汚れ仕事」「色物」という芳しくない印象が強かった忍者という職業を、一躍スーパーヒーロー的な人気者の地位へ押し上げた偉人である。彼のお陰で忍者たちはそれまでのように日陰でこそこそと仕事をすることもなく堂々と胸を張って表社会を闊歩できるようになった。その結果、ガルフォード不知火舞チップ・ザナフなど、「忍ばない忍者」が時代を下るごとに漸増し、「忍者」は形骸化していった。今では平気で赤の他人に「俺忍者です」と暴露する忍者や、街中で大道芸感覚で忍術を披露する忍者までおり、全然忍んでいない。それらの事情を勘案すると、半蔵の残した「功罪」は真に根深いものと言える。

ちなみに日本の英雄の一人だが何故か海外での人気の方が盛んで、地元の日本ではあまり評価されていないどころか、忍者ではなかったとか、あまつさえ架空の人物だったとまで言われている。どうやら日本人はむしろ服部半蔵の事を嫌っているようだ。反面欧米権での人気は凄まじく、聖徳太子や義経など足元にも及ばぬほどの人気があり、忍者と言えばHATTORI HANZOと言われるほど、最早忍者の代名詞になっている。

経歴[編集]

出自[編集]

服部半蔵は16世紀の初頭~中頃に生まれたらしい。出身地は、忍者と言えば伊賀甲賀生まれと言うので相場が決まっているのでこのどちらかであろう。半蔵は伊賀忍者を統率しており、本人曰く、服部家は伊賀の忍びの中でも特に有力であった「御三家」の一つであった、らしいから、とりあえず伊賀の出身と言う事にしておく。半蔵というのは通称であり、本名は別にあるのだが、その本名が、保長、正成、正就、正広と数年おきにコロコロ変わっており、大変紛らわしい。しかし、主君の徳川家康はじめ彼の周囲の人間は一貫して通称である「半蔵」で呼んでいた事から、過剰な改名による弊害はさほど生じなかったようだ。また、中世は何かにつけて改名することが日常茶飯事(主君の家康ですら立場が変わるたびに名前を変えている)であったため、誰も気にしなかったようである。

松平氏への出仕[編集]

伊賀の地に生まれた半蔵だが、どういうわけか三河に漂着し、松平清康に仕えた。他の伊賀御三家である藤林家の娘(二人姉妹である)に横恋慕し、夜這いをかけようとしたため伊賀の郷を追われたというのが通説だが、信憑性の高い史料によれば、百地三太夫と確執があり、彼の昼食のタヌキうどんを摘み食いしたことで百地が激昂し、伊賀の郷を放逐されたと書かれている。まあ何はともあれ伊賀を追われたことだけは確からしい。

かくいう経緯があって半蔵は松平清康の家臣となり、ボディーガードとして近侍した。清康は英邁な君主であり、三河の小大名でありながら隣国の織田、今川相手に一歩も引かずに奮戦したが、30歳もいかぬ若さで発狂した家臣に暗殺されてしまった。半蔵は清康の命を護るべき立場にありながらみすみす清康が刺客の凶刃にかかるのを看過してしまったことで他の松平家臣から糾弾され、責任を取って切腹しようとしたが、幼い清康の息子松平広忠から、「生きて奉公せよ」と自害を止められたという。いい話である。とあるアメリカ人にこの話を聞かせたところ、でっち上げ臭がぷんぷんするジョージ・ワシントンの桜の木のエピソードなんかよりよほど泣ける話じゃないか!」と一晩中むせび泣いていた。もっとも、日本人にとっては、自害しようとする武将を殿、或いは戦友が止めて「生きて忠誠を尽くせ」などという話は典型化されてあちこちに転がっているような聞き飽きた話であるため、余程涙脆い人か、バカでない限り感動することはない。

清康の後継として当主の座に収まった広忠だが、彼もまた発狂した家臣に殺されてしまう。二代続けて当主が殺害されると言う悲哀を味わった松平家であったが、清康と違い、広忠はどうも大した人物ではなかったようで、清康ほどその死を悲しまれる事もなかったし、半蔵も追い腹を切らなかった。

松平家は幼き当主竹千代(後の家康)とともに今川家の傘下に併呑され、今川の尖兵として酷使されたが、桶狭間の合戦で義元が討死にしたお陰でそのくびきから解放された。北米に流布している伝説によると松平家を今川の支配から解放せんと使命感を抱く半蔵が悪しき今川義元を織田信長と結託して成敗し、松平家は今川の支配から見事脱却した、などと伝えられているが流石にこれは捏造である。

家康の下での活躍[編集]

独立した松平家は徳川と家名を改め、信長と同盟を結んで有力戦国大名として飛躍する。徳川が独立した記念に、半蔵は諱を「保長」から軍事の天才と礼賛される楠木正成にあやかり「正成」に改名した。半蔵は家康に近侍し、主に暗殺や諜報などの裏方仕事で八面六臂の活躍をしたが、一方で家康の嫡男である徳川信康の首を刎ね飛ばして処刑するというトンデモないことをやらかしている。主君のご嫡子を斬首して殺害するなどあるまじき背信行為だが、家康は半蔵のこの所行に対して「よくやった」とねぎらいの言葉をかけたという。経緯は定かではないが、半蔵による斬首を是認するほど家康は嫡男信康の事を嫌っていたということは確かだろう。

天下統一の覇業を推進する信長は半蔵の生まれた郷である伊賀も併呑した。信長はこの際抵抗する伊賀忍者達を虐殺したのだが、半蔵は信長を制止することも昔の同胞たちの命乞いもせず、鼻をほじりながら傍観していたらしく、薄情な奴だと非難されている。半蔵と仲が悪かった百地三太夫はこの伊賀攻めで徹底抗戦の果てに玉砕したらしい。

本能寺の変で信長が横死した際、家康はにおり、三河に帰るまで敵の将兵がたむろする中を突っ切らなければならなかった。この際半蔵が伊賀忍者達を使役して家康の逃げ道を確保したという話は有名で、「神君伊賀越え」として語り草になっている。半蔵が逃げ道として用意したのは獣道であったらしく、このことから半蔵は森の動物さん達と仲良しであったことが窺える。英雄たるもの、自然を愛するナイスガイであって当然であろう。スーパーヒーローである半蔵の戦闘力を持ってすれば、襲い掛かる敵兵を悉く屠りながら三河まで強行突破も出来たのではないかとケチをつける輩もいるが、真の英雄は無益な戦いはしないのである。

家康が関東に領地変えされる際も他の徳川家臣と共に随従し、今まで挙げた輝かしい武勲、功績を讃えられ江戸の一角の門に「半蔵門」という名を与えられた。半蔵は欣喜雀躍して、自分の名が付けられたその門に罠を仕掛けまくり、不幸な雑兵が数人引っかかって死んだ。

表舞台からの退場[編集]

1596年ごろを前後に、それまでも影の仕事に徹し表舞台に殆ど姿を現すことはなかった半蔵だが、家康などの前にも滅多に姿を見せなくなり、そのため半蔵が死んだという風聞が飛び交った。今日世間に流布している歴史本ではこの年に半蔵が死んだと表記されているものまであるが、無論半蔵は死んでいない。この頃、当時の支配者であった豊臣秀吉の政権は朝鮮出兵などで基盤が不安定になっており、また秀吉も病に罹患するなどして風雲急を告げる世情になっていたため、半蔵も江戸を離れ各地で隠密活動を行っていたと思われる。

1600年の関ヶ原の合戦では、家康から石田三成島左近暗殺を命じられるが失敗するなど、それまでの大車輪の働きとは対照的に、大して活躍出来ず仕舞いであった。半蔵が三成を暗殺し損ねたために、小早川秀秋が内応しておきながら一時三成方への鞍替えを思案するなど、あわや徳川が敗北しかけた。また田中吉政が戦後三成を捕縛するという大手柄を挙げたために家康は吉政に恩賞を与えなければならなかった。半蔵が暗殺に成功していれば、合戦が長引き東軍が敗北の危機に瀕する事も、田中吉政如き小物に多大な恩賞を与える必要もなかったと、戦後家康は半蔵を大いに叱責したらしい。

大規模な合戦があらかた沈静化し、平和な世が訪れると、半蔵は将軍の無聊を慰めるために伊賀忍者と甲賀忍者を殺し合わせるという蛮行をやらかす。この顛末は『バジリスク 〜甲賀忍法帖〜』とかいう漫画ないしアニメに詳しいが、この一件で伊賀及び甲賀忍者の半蔵に対する反感と憎悪が充溢し、クーデターのようなものが起こって半蔵は忍者の頭目の座を追われた。

その後[編集]

忍者の領袖の座を追われた半蔵だが、その後各地にあぶれ帰る浪人や山伏を糾合して「影の軍団」なる異形の集団を組織し、フリーの隠密(本人談)として、幕府による磐石の治世を脅かす逆賊を成敗した。例えば、島原の乱にも影の軍団を率いて助勢したし、伊達騒動の際乱心した原田甲斐を成敗したのも影の軍団らしい。薩摩藩長州藩などの動向を常に監視し、倒幕運動を見せる危険人物を秘密裏に抹殺したりもした。

一方で半蔵は文化人としての素養もあったようで、松尾芭蕉と号して諜報活動の為各地を跋渉するついでに歌や紀行文なども手がけた。ただ芭蕉と半蔵を同一人物と看做すにはどう見ても無理があるという見解が強いので、学会のお偉いさん達の間では芭蕉と半蔵は別人ということになっている。

徳川による200年以上の治世を、影から補佐してきた半蔵だが、近代化には追いついてゆけず、西洋列強の兵器を入手し勢いづいた薩長を止める事は叶わなかったようだ。大政奉還、それに続く戊辰戦争と江戸城明け渡しによる幕府の終焉と共に隠密も瓦解し、半蔵は再び浪人となってしまった。しかし、各地を放浪する中で寿司屋としての技術を身に付けたらしく、明治維新後、かつての同胞の忍者達と共に寿司屋のチェーン店を展開。今なおその寿司屋は繁盛している。店員が皆手先の器用な忍者なのでスシを握るローテーションがとてつもなく迅速であり、注文してから30秒も経たずに寿司が出るため客の評判は非常に良いが、暗殺を生業とした忍者の「サガ」であるのか、たまについうっかり毒物を混入してしまい、お客を亡き人にしてしまう忍者店員もいるらしい。

人物像[編集]

左から風馬小太郎、服部半蔵、望月千代女

家康の長男、徳川信康が自害させられたとき、半蔵はその介錯を担当したと言う。この時の半蔵は悲しみのあまりむせび泣き、鬼の半蔵の目にも涙だと他の徳川家臣をもらい泣きさせた。しかし当の信康は「お前いい歳したオッサンの癖してメソメソ泣いててウザい、早く介錯しろアホンダラ」と、半蔵を叱責したと三河物語に書かれている。

家康の伊賀越えに多大な功績があったという伝承がある通り、伊賀、つまり三重県の左の方に関する土地勘が強かった。今でも半蔵の末裔の伊賀忍者は伊賀市のド田舎を拠点に、迷いやすい密林や獣道を縦横無尽に動き回ってひったくりやスカートめくりなどの犯罪に励んでいる。忍者としての仕事が減ってお金が稼げなくなってしまったので彼らもストレスが溜まっているらしい。

関連項目[編集]