春に

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春に』(はるに)は、谷川俊太郎が1989年に発表したである。

概説

日本において、は、人心が不安定になる季節である。四季のなかで、殺人事件が最も多いのは春、変質者(性的な意味でもそうでない意味でも)の発生件数が最も多いのも春、自殺者が最も多いのも春である。
かつて西行法師は「願わくは 花の下にて 春死なむ」と願い、実際に春に死んでいった。また梶井基次郎は、「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」と叫んで発狂し、「墓場を発(あば)いて屍体を嗜む変質者のやうな惨忍なよろこび」を味わった。

春。日本で最も有名な詩人として知られる谷川俊太郎も、また不安定な状態であった。彼は既に3度離婚しているが(2017年6月現在)、その全ては春に起こっていた。

春は芽生えの季節である。冬を越した植物が土の中から芽生え、眠っていた何かが心の奥底から芽生えてくる季節である。
谷川はしかし、自分の心の中に芽生えた、何とも言いようのない不可解な気持ちが何であるのか、考えあぐねた。更に、自分の気持ちがわからないこと自体が、彼を不安に、また不安定にさせた。

その不安定さは、彼に、自らの不安を詩に発露させるという行動を取らせた。そうして書かれた作品が、『春に』である。

詳説

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この詩の全体は4つの連からなっている。ここでは、1連ずつ分けて読んでいくことにしよう。(なお、#外部リンクの節に掲げたリンク先では、全文をまとめて読むことができるので、併せてご参照頂きたい。)

第1連

 この気持ちは何だろう
 この気持ちは何だろう
 目に見えないエネルギーの流れが
 大地から足の裏を伝わって
 この気持ちは何だろう
 この気持ちは何だろう
 僕の腹へ胸へそうして咽喉へ
 声にならない叫びとなってこみあげる
 この気持ちは何だろう

冒頭からいきなり、「この気持ちは何だろう」と読者に問い掛けている。この「この気持ちは何だろう」という言葉は、この詩の重要なテーマであると同時に、詩の最後までずっと折に触れて繰り返されることになる。勿論これは、谷川が自らの不安感をただひたすらに表現したものであるが、読者もまた、この問い掛けの繰り返しにより、読み進めるにつれて段々と不安感を増してくることになる。

この連ではまた、谷川が感じている「目に見えないエネルギーの流れ」が、次のような経路を辿っていることが示される。

大地(地面)→の裏→咽喉

足下から胴体を経由して頭部に達する「目に見えない」ものと言えば、言うまでも無くそれは「悪寒」である(或いは「不安感」と言い換えても良いだろう)。しかも、「声にならない叫びとなってこみ上げる」ほどの、激しい悪寒である。

人間、悪寒や不安を感じることは多々あれど、それだけを原因として「声にならない叫び」をあげるようなことは滅多に無い。あるとすれば、それは恐怖が伴う場合——それも、人間が感じることのできる恐怖の中で最も大きい、に対する恐怖を伴うものであろう。たとえ自らの死ではなくても、ごく近しい人間の死、あるいは物理的に近い場所での死などの予感を感じたとき、人は声にならない叫びをあげる。

谷川に迫った「死の予感」は、具体的にはどのようなものだったのか。これは、次の第2連で示される。

第2連

 枝の先の膨らんだ新芽が心を」(つつ
 喜びだ しかし悲しみでもある
 苛立ちだ しかも安らぎがある
 憧れだ そして怒りが隠れている
 心のダムに堰き止められ
 澱み 渦巻き 」(せめぎ合い
 いま溢れようとする

新芽が心を突く——。読者の胸に突き刺さり、谷川が感じている“痛み”をそのまま読者にも感じさせる、実に的確で、それでいて陰惨な表現である。しかも、一思いに「突き刺し」たり「抉(えぐ)っ」たりするのではなく、致命傷にならないよう充分な注意を払いながら「突く」のだ。真綿で首を絞める、とはこのことだろう。

その次に、ここでようやく谷川が感じている「死の予感」についての具体的な特徴が、6点示される。

  • 喜び
  • 悲しみ
  • 苛立ち
  • 安らぎ
  • 憧れ
  • 怒り

この6点全てを包含しており、かつ、死に関わる感情となれば、一つしか無い。読者も既におわかりのことだろう。

即ち、

  • 喜び - 邪魔者がいなくなることによる喜び
  • 悲しみ - これから殺す相手に対する、同情を含んだ悲しみ
  • 苛立ち - 邪魔者がまだ生きて存在していることによる苛立ち
  • 安らぎ - 邪魔者がいなくなることで谷川に齎される安らぎ
  • 憧れ - 邪魔者がいなくなった状態の世界、即ち“理想の世界”への憧れ
  • 怒り - 以上5つの全てを根底で支配している、最大の感情


そう、殺意である。

即ち、谷川が抱いていた「死の予感」は、“その死が自分の身近なところで発生する”というだけではなく、“自らの手で他者に死を齎す”という意味をも含んでいた——というよりは、むしろ前者が従であり後者が主であったのだ。

勿論、人間誰しも、週に2~3回は誰かに殺意を抱いたりするものだが、普通は理性——即ち“心のダム”によって殺意は堰き止められるため、殺人という形で殺意が発露することは余り無い。
しかし、ダムの高さには限界がある。また、堰き止められたといっても、それで殺意がすぐに消え去るわけでもない。そうして、ダム湖の中に殺意はどんどんと溜まってゆき、澱み、渦巻き、限界まで鬩ぎ合った末に、やがて、溢れようとする。

第3連

 この気持ちは何だろう
 この気持ちは何だろう
 あの空のあの青に手を浸したい
 まだ会ったことのない全ての人と
 会ってみたい話してみたい
 明日と明後日が一度に来ると良い
 僕はもどかしい

殺意が溢れようとするその寸前になって、しかし理性はもう一度、「この気持ちは何だろう」と問い掛ける。精神分析学で言うところの防衛機制である。理性は、何とかして、この気持ちを殺意ではない方向へと転化させようとしているのだ。

殺意の発露(殺人)を防ぎ、かつ邪魔者がいない状態を現出させる——即ち逃亡である。空の青に手を浸すことなど物理的には勿論不可能だが、しかし、手の届かない場所へと敢えて視線を向けることで、今にも溢れ出しそうな殺意からひとまず眼を逸らすことができる。

邪魔者と話すのはもううんざりだから、まだ会ったことのない人と話してみたい。明日またあの邪魔者と会うのは嫌だから、いっそ明日と明後日が一度に来ると良い。こんなに僕の中は殺意で溢れているのに、殺すことができないなんて、僕はもどかしい。——これはまさに、葛藤の最たる例であろう。(なお、「邪魔者」が具体的に誰のことなのかおわかりにならない方は、再度、この記事の#概説の節を読み返して頂きたい。)

第4連

 地平線の彼方へと歩き続けたい
 そのくせ この草の上でじっとしていたい
 大声で誰かを呼びたい
 そのくせ 独りで黙っていたい
 声にならない叫びとなってこみあげる
 この気持ちは何だろう

第4連に至って、いよいよ谷川の内心は混迷の度を深める。
邪魔者の前から逃亡するために、地平線の彼方へと歩き続けたい。一歩でも歩き出したらそのまま殺しに行ってしまいそうだから、この草の上でじっとしていたい。この殺意を抑えるために、誰かに話を聞いてほしい、大声で誰かを呼びたい。いや、殺意のような反倫理的なことは、邪魔者は勿論、無関係な人にさえ話すべきではない、やはり独りで黙っていたい。

そうして、谷川はまた最後に、声にならない叫びをあげる。「この気持ちは何だろう」と。

人間は、目の前にあるものが何だかわかっていても、その存在に驚いたときには、思わず「何これ?」と言葉を発してしまうことがある。この詩での「この気持ちは何だろう」という言葉は、第1連では疑問あるいは問い掛け、第3連では防衛機制の一種であったが、第4連では、自分の抱いている気持ちに自分で驚いていることを表しているのだ。

その後

詩『春に』は、以上で終わりであるが、谷川は後にこの詩を『地平線の彼方へ』という題の、5篇の詩からなる連作に編み直している。その第1篇は、この『春に』であるが、続く第2篇は『サッカーに寄せて』である。
この作品の詳細については当該記事に譲ることとするが、『サッカーに寄せて』は時間軸的にも内容的にも『春に』の続きになっており、これを読むことで『春に』への理解を更に深めることができる。そのため、『サッカーに寄せて』の冒頭のみを、最後にここで掲げておく。


 蹴っ飛ばされて来たものは 蹴り返せば良いのだ
 蹴っ飛ばされて来たものは 蹴り返せば良いのだ
 蹴る一瞬に 君が自分に確かめるもの
 蹴る一瞬に 君が誰かにゆだねるもの
 それは既に言葉ではない それは既に言葉ではない



……「蹴る」が、具体的にはどのような行為を指しているのか、もはや解説の必要は無いだろう。


関連項目

外部リンク

Wikipedia
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