揶揄
起源[編集]
一昔前までは、口げんかといえば汚い言葉で野次るというのが主流であった。
しかし、それは私的な場所ではいいもののテレビでは放送できない放送禁止用語などを使う人物が後を絶たなかったことが問題視され公共の場で口げんかができなくなってしまった。本来であれば口げんかなど起こらないほうがよいのであるが、血気盛んな人々はそれでは収まらなかった。
そのため上品な言い回しを使い、かつ悪口には聞こえないように慎重に言葉を選んで口げんかをする人々が現れた。しかしそれではただのほめ合いとなってしまったため、言葉の中に強烈な毒を仕込む技術が発達した。それがどんどん昇華していき今の揶揄に発展していったと考えられている。
現在[編集]
今現在は政治家や評論家、芸能人など公共の電波の目に触れる短気でなおかつある程度の語彙を持つ人物に愛用されている。その標的は主に国や自治体、国会議員や役人など自分にとって目上の人物(社会的立場の高い人物)であることが多い。
これは揶揄のもう一つの利点とされ、どれだけ目上の人物に揶揄を使おうと名誉毀損で訴えられない限りは言いたい放題してもなんら不自由なく過ごせることである。しかも、目上の立場の人が快く思われていなければ思われていないほど聞く立場の人々も味方になってくれるという副作用まで存在する。ただし、揶揄した人物が慕われている場合は自爆する可能性もあるので対象を誤ってはいけない。
また公共の電波に映らないような人々でも揶揄ができるだけの機転と語彙があれば使用する人物も少なからず存在する。それらの人々によって現在でも揶揄の技術は進化し続けている。
もちろんアンサイクロペディアではユーモアさえ含まれていれば揶揄も大歓迎である。
欠点[編集]
しかし欠点もある。揶揄を使いすぎると暴言を吐きまくるよりも嫌われる確率が高くなる。
また比較的ひねくれ物が使うことが多いため使用者の人格が疑われてしまうケースも存在する。やはり最善はそのような口げんかや一方的な悪口は控えたほうがいいのである。
客観的な評価[編集]
きっぱり言って周りから揶揄のやりあいをみるのは非常に見苦しい。それは暴力沙汰や罵りあいと比べても「少しはマシか」ぐらいにしか思われないほどひどい。
もちろん公共の電波で放送は可能というメリットはあるが視聴率がやや下がることもあるので揶揄をメインとした番組(たかじんのそこまで言って委員会やTVタックルなど)以外ではテレビ局も出演者に揶揄を言わせないように神経を尖らせている。