吉行淳之介

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吉行淳之介1924年1994年)とは、戦後を代表する小説家の一人であり第31回芥川賞受賞者である。あわせて、対談エッセイの名手として知られ、何よりも戦後を代表する「文学者たちと書いて奇人変人と読む」連中の中にあっても負けず劣らずの個性の持ち主であり、また身体障害者のための福祉施設であるねむの木学園の理事としても知られている。

のだけれども、総合的に鑑みて、2013年現在、彼の名前を思い出す際、ある一定の年代より下の人はその著作群から記憶を引き出すのではなく、彼の女性遍歴やテレビドラマ、そして福祉関連のイメージから心の引き出しを開けるのが常となっている。

これは少し悲しくもあり、仕方ない話である。この記事では、戦後を代表する小説家の一人に実際に訪れた悲劇を記載する。

売れる、ということ[編集]

明治大正の御世、世の中には高尚と低俗の二つの世界が存在し、方や売れるけれども忘れ去られることを前提とし、方やまったく売れないけれども、少ない愛読者の長年にわたる愛情を引き受けることで、様々な表現がの両輪を保持することで後世に伝えられていった。が、それは戦後、いわゆるアメリカ文化の流入により、コマーシャリズムというものが一般的になっていく中で、質というものが少しずつ少しずつ庶民の側へと下がっていくことで変容していく。

特に、文学界で。

最終的に、日本の文学は質を置き去りにして、必然的に売れるための文学に様変わりするのだけれど、吉行淳之介氏は、そういった変化していく時代の最前線に立ち続けた作家の1人となる。無論、彼の表現の質が一級であったことは間違いないのだけれど、その作品を売るために様々なことに手を出し続けたことが、結果的にその後の文学の姿を大きく変えることになる。

なお、2013年現在、彼と同じ時代を生きた作家の1人、石原慎太郎氏は小説家という立場から早々に飛び出し、長きに渡り政治家として活躍。東京都知事にまでなり、80歳を超えてもなお新党を立ち上げるほど精力的に動いている。そんな彼の活躍が文学というジャンルで語られるぐらい、文学を含む日本の表現というものは変容している。

略歴・そして小説家の死[編集]

簡単に彼の生涯を説明すると、有名作家吉行エイスケを父に持つ文学青年として終戦直後、大学生のころから雑誌の編集のアルバイトをきっかけに文学界に足を踏み入れる。その後は会社勤めと作品の上梓を繰り返す日々を送り、28歳のときに初めて芥川賞にノミネートされるも、その直後に結核が発覚。長い闘病生活を送ることになり、結局、片方のを切除することになる。この体験はその後、彼の人生観と作風に大きな影響を与えることになる。そんな中、病気のために会社を辞した直後に書いた作品が芥川賞を受賞するという僥倖に恵まれる。このように短期間で天国と地獄を味わったことから、その才能が一気に開花。一躍戦後文学の寵児として名を馳せることになる。

その後は日本の文学を牽引する作家の一人として40年以上にわたって作品を発表し続けるも、生来の病弱とに起因する不摂生がたたり、1994年に死去する。当時、彼の死については、老醜をさらす前の死として納得する人間、そして早すぎる死をいたむ人間の半々という状況であった。けれど、吉行淳之介という人物の不運。それは、彼が肝臓がんのため70歳にして死去した後に始まるのだからたまらない。

もっとも、それは結局のところ今日の文学が消耗品であることを換算すればなんらおかしくはない話なわけだけれども。

作品について[編集]

生前の吉行氏は、戦後から高度成長期における男女の関係を描いた一連の作品群で多くの読者からの人気を得ている。それまでの明治大正から続く恋愛の姿とは明らかに違う乾いた文章に、多くの人々が新しい時代の息吹を感じたことは確かである。もっとも、永井荷風という先達がいたことが、彼の文章が受け入れられる下地になったことは間違いないけれど、正々堂々、売春婦との関係を取り扱った作品「驟雨」が芥川賞を受賞した段階で、彼のその後が決まる。

実際、男女の仲を時代時代ごとに切り取っていくその手腕は多くの愛読者を獲得し数多くの作品で文学賞を受賞。中には流行語を生み出すような作品も存在する。のだけれど、彼は当時の文学が売れることが正義という一念に凝り固まった結果、必然的に出来上がったあるスパイラルにはまる。それは、作者を前面に押し出すことで、ひいては自分もまた作品の一部とみなすことで読者の支持を仰ぐという文化人という名のスパイラルである。

それは、彼の作風どころか生き方にまで決定付ける点において、悲劇ではあった。けれど、彼はそれに勝利する。けれど、それもまた悲劇である。彼、そして彼の周辺の人々は、一様に文化人というくくりであげつらわれ落とされて、ある者はスキャンダルで消え、ある者は目立たないというだけで消えていく。そして、誰もが死の間際まで有名であることを課せられて、そして死んだ後は時代の波に消されていく。

まぁ、よくある話である。

彼という作品[編集]

戦後、数多くの文学者たちがエッセイ紀行といった作品へ手を広げていったのには、そういった競争の中に放り込まれた結果であり、彼らもまた、自分の名前が自分の作品を売るための商品であることを理解していたためである。そして、数々のパフォーマンスで知られた寺山修司や文学から政治へと飛び出した石原慎太郎といった人々の中にやはり、吉行淳之介氏の名前を見出すことは可能である。

それは、数々の女性関係のスキャンダルのほか、夜の世界、決して表に出ることの無い場末の酒場の逸話といったものの他、実際に読者が手にとって読める作品でもそういった傾向が見られる。特に、対談集などではそれが顕著で、タモリ渥美清といった内面に迫ることが困難とされた人物や、さらには谷口雅春(新興宗教生長の家の開祖)といった一本とがった人たちとの彼との掛け合いは、明らかに酒場の掛け合いに近いものがあり、彼という存在を経てそういった人々を検証するというスタイルが出来上がっていた。それは、司馬遼太郎を通して各国の風土や歴史を知るのに似て、分かりやすい思想を持った人を通せば、読者の理解を得られ、なおかつ愛読者を獲得しやすくなるという大きな発見でもあった。

けれど、そういった本人の面白さや戦後の突き放した人間関係を描写した作品は、どうしてもバブル景気に踊った世相とその後の長きに渡る不況の中では生き残るのが難しくなっていく。実際、バブルの熱狂の中と、それがはじけて以降、長きに渡る不況の中で、日本における男女の恋愛小説は、村上春樹ノルウェイの森渡辺淳一失楽園といった、流行を伴いコマーシャルの中で映える作品が常となり、夜の世界が敬遠されていく。

時代の変遷[編集]

そんな形で文学も日本も変わっていく時代の中で、突然に訪れた一人の人間の死。それはその人の記憶とともに作品が消え去っていくことを意味することになる。実際、吉行氏の場合もその死がバブル景気の崩壊と重なり、その後の阪神大震災オウム真理教事件という大きな世代の転換点を迎え、日本全体が一つの転換点を迎える中で亡くなったため、「時代の終わり」というくくりの前に人々の記憶から急速に消え去り始める。もっとも、長年にわたるパートナーだった宮城まり子さんや、彼の親族の活躍はずっと続いており、そういった人々の活動が、彼の記憶を人々から忘れさせるのを防いでいた。これは、多くの作家が生きている間から忘れられ始めることと、死んでからなお思い出すきっかけが存在しないことと比べれば遥かに運のいい話であった。

のだけれども、その活動がとんでもない結果を生み出すのだから、世の中は恐ろしい。忘れるだの記憶し続けるどころの騒ぎではなく、人々はむしろ彼と彼の家族について忘れることを拒否するようになっていく。それは、彼の死から3年後、1人の女性の人生を描いたNHK連続テレビ小説がきっかけとなる。

小説家から、長男へ[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「あぐり」の項目を執筆しています。

1997年4月から半年間放映されたそのドラマの名は「あぐり」。これは、彼の母親である吉行あぐりさん(1907年2015年)の類まれなる生涯を追った傑作であり、当時卒寿(90歳)を迎えていた彼女のその後を決定付け、3年前に死去していた長男である淳之介氏のイメージを根本からぶち壊していく始まりとなる。

そもそも、彼の不幸の根源には親族の才能というどうしようもないものが存在したところにある。それは、彼が長年積み重ねた時代の最先端を走る売れっ子小説家という砦を一瞬にして崩落させ、この親にしてこの子あり、という大きな枠組みの中で彼と、彼の作品が語られるようになる。もし、彼が生きていたら。彼の酒の逸話と女性遍歴、さらには男娼を買うまで爛れた性の変遷などが、彼と彼の作品を守り通したのだろうけれど、不運なことにそういった負のイメージは、その死をきっかけに本人とともに土の中に埋もれてしまっていた。

そして、時代は彼を、とある家庭の一員にまで貶める。が、それは忘れ去られようとした人間が、いつまでも覚えていたい存在に昇華した瞬間でもある。

吉行家の人々[編集]

結局のところ、彼の生前、人々は彼の行き方や作品から彼の視点やその才能の理由を見出そうとし、いつか自らもまたその道をたどろうという意識を持ちたくなるような作品が多かったのだけれど、それがまさか、日本全国ほぼ毎日定期的にしっかりとした理由をもって説明されるんだから大変だ。

実際、毎朝毎日毎週毎月、NHKのドラマを食い入るように見た多くの視聴者が、彼の生き方というか彼の精神性の根本にあるものが、彼の家庭にあったことを理解してしまう。ああやって育てば、育てられれば、ああなるという話は、小説家にとっては悪夢であるのだけれど。もっとも、あぐりにて描かれた彼の親族は、父である吉行エイスケ氏(1904年1940年)を初めとして、2人の妹も、女優として日本アカデミー賞主演女優賞を獲得した吉行和子さん(1935年~)、さらには彼と同じく第85回芥川賞を受賞した詩人、吉行理恵さん(1939年2006年)といった著名人を輩出しており、そんじょそこらの有名人一家などは足元にもおよばない濃い人々がそろっていた。しかも、当時の一般家庭において。

これは、吉行家の中でもっとも日陰の立場であったと思われた母親、吉行あぐりさんが、実はとんでもないほど濃い人生を送っていたせいであるのだけれども、そのため、夫と子供たちが軒並み著名人という家族がいかにして生まれ、どのように子供たちを育てたか、何よりもそこまで一家を導いた本人の人生がどんなものであったかを伝える作品に、多くの人々が共感していく。本当に、珍しいものを見る気分で。その結果、酒を愛し、女を愛する中で培った一家の長男が40年かかって築き上げた神秘性が薄らぐ薄らぐ。文化人として積み上げたイメージは大衆の好奇心の餌食となる。

もっとも、そのおかげで彼が戦後の文学界における奇人変人の中でも、忘れられない1人になる。これは、神秘性を抱いたまま消え去るよりもよっぽどマシである。

忘れ去られる、ということ[編集]

せっかくなので、ウィキペディアから戦後の日本の文学界において第三の新人と呼ばれ活躍した小説家の名前をピックアップする。時代的に見て、いわゆる戦後派と呼ばれる人々と、石原慎太郎を筆頭とするその後の有力作家たちに挟まれた彼らは、残念ながら一部の人々を除けば大変に忘れやすい存在であった。が、だからこそ生き残る術を模索し、様々な形で後世に伝わった人々が多かった。

とりあえず、長谷川四郎小島信夫島尾敏雄小沼丹近藤啓太郎安岡章太郎阿川弘之庄野潤三遠藤周作、吉行淳之介、三浦朱門曽野綾子という面々の中において、2013年現在、どれぐらいの人々が彼らの名前を覚えているか。作品を読んでいるか。その逸話を知っているか。

結局のところ、同じ時代を生きた人々が時代とともに消えていく中で、どうやって彼らの存在を残していくかは、運がいいか、悪いかでしかない。教科書に載ったり、夏休みの図書に選ばれたり、果ては鉄道狂として一世を風靡したりするところに、文章のいいわるいが存在しないというのが、日本文学の悲劇である。もっとも、だからこそ、探し当てる喜びと、出会う楽しみがあるわけだけれど。

吉行あぐりという人[編集]

とりあえず、そんな忘却のふちに立たされた息子である吉行淳之介氏を、あっという間に人々の記憶に刷り込むことに成功した母、あぐりさんについて説明すると、大正時代から戦後にかけて女性が手に職を持つなどということが考えられもしなかった時代に、日本の美容師の草分けとして活躍。この段階でNHKのドラマが取り上げて多くの視聴者が食いつく内容である。しかもそれ以上に、本当にとんでもない夫と、その夫から才能を受け継いだ子供たちをどう導いたかが彼女の恐ろしさになる。

実際、ドラマにおける大きな主眼となり、彼女とその周囲に生きる人々のその後を思えば、日本中がこの一家に注目して当たり前であり、よくもまあこんな話が埋もれていたなあという話である。もっとも、ドラマの原作となったのは、彼女の半生を描いた「梅桃(ゆすらうめ)が実るとき」であり、その中には、家族全員が「うちの家族は自分以外全員変わり者」だと思っているという、吉行家を理解しやすい一文が存在する。

つまり、そういう話なわけである。

のだけれど、この話には続きがある。その上をはるかに越える続きがある。これは、著名人の親族が著名になるということの重要性を多くの人間が考えていなかった結果、想像だにしないことが起こったということである。そしてそれは、小説家として一時代を築き、吉行家の長男として多くの人にとって忘れられない存在となった淳之介氏を、再度、思い返すきっかけとなる出来事になる。

厳然たる事実[編集]

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すべては単純な話である。

1997年に当時90歳だった吉行あぐりさんは、1926年、大正15年に美容師になるために日本の美容師の草分け山野千枝子門下に入り2年間修行、1929年に独立を果たし、その後、日本の美容師界の草分けとして活躍。なお1923年に結婚した夫とは、1940年に死別している。その後、長きにわたって現役の美容師として活動を続ける中、1994年に長男である淳之介氏と死別した後、2006年に次女である理恵さんも見取ることになる。

ということで、2013年、淳之介氏の母親は90年前に結婚して87年前に美容師を志して、84年前に美容院を開業。73年前に夫と死別し、19年前に長男である淳之介氏を、7年前に次女を亡くしているということになる。色々と数字がおかしい。そして、76年間現役の美容師として店を切り盛りし、2005年に引退するも、その後も矍鑠として活動を続け、2015年1月、107歳という長寿で亡くなるまでウィキペディアの存命人物および長寿の人物のカテゴリに名を連ねていた。

この呆れるしかない現実の前に、文学というものの存在の薄さたるやもう、言葉に表すことができやしない。まさか、事実は小説より奇なりという話が、小説家の死後に現実になるのだから、世の中は厄介である。

とりあえず、こういった著名な文学者の親族が、もう一度違う話で著名になるという点において、淳之介氏の不運さと運のよさは筆舌に尽くしがたい。そして、敬老の日やウィキペディアにおける有名人の中で長命な人物を探すという好奇心を持った人々の存在により、多くの人間が母であるあぐりさんを通して彼を思い出すことができる。これは、作品はともかくとして、ある年代における忘れられない人となった以上、表現において一つの勝利を意味する。

ちなみに、一人の肉親の活躍によって、過去の人物の表現が生き残るというのは、彼の父親であるエイスケ氏の記憶を、多くの人間が淳之介氏の活動によって記憶したことと一致している。

関連項目[編集]