北条時宗

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北条 時宗(ほうじょう ときむね、建長3年5月15日1251年6月5日) - 弘安7年4月4日1284年4月20日))は鎌倉幕府第8代執権。一番大変な時期に執権になってしまい、過労の末に突然死してしまったので、疫病神に憑依されていたのではないかという疑惑がある。

蒙古襲来と言う国難に立ち向かった英雄だが、時宗本人は鎌倉で自宅警備をしながら総指揮を取っているだけで前線に立たなかったためチキンの烙印を押されることも多い。その上皇国史観により蒙古撃退の功績を全て神風に持っていかれてしまう。大河ドラマ和泉元彌が彼を演じた為歴史オタクではない一般人(主にお茶の間のおばちゃん)の脳内では彼と元彌は混同されており、時宗=ドタキャン、逮捕という誤ったイメージが定着してしまっている。

兄に赤マフラーこと北条時輔、弟に独眼竜じゃないよ北条宗政、息子に借金踏み倒し執権北条貞時がいる。

生涯[編集]

幼年~青年期[編集]

北条時頼の次男として生まれるが、時宗の母は正室で、長兄・北条時輔の母は側室なので、時宗が最初から跡継ぎとして育てられていた。幼少期、見聞を広めるため父に連れられ各地を巡歴し、雪山の中で遭難しかけ、たまたま山中に住居を構えていた佐野源左衛門に助けられたり、松浦の灘で溺れそうになって危ういところを佐志房に救われるなど、何度も死にそうな目に合った。しかも父時頼は時宗が死にそうになっても「獅子の子は千尋の谷に突き落とされ、そこから這い上がってくる事で強くなるのだ」などと訳の分からない戯言をぬかし、時宗を助けようともしなかった。このため時宗は父親不信、ひいては人間不信となり、これが後に得宗専制の独裁体制を敷いたり蒙古からの使者を問答無用で斬罪に処したりするなどの暴挙に至る遠因となった。

元服後、宗尊親王から一字を貰うが、「将軍より自分たち得宗(北条本家)が上」という認識があったため、父と同じくその字を下(2文字目)に置いて時宗と名乗る。父時頼は時宗が成長するまでの間、中継の執権として極楽寺流、北条長時に執権を命ずるが、時宗は早く自分が執権になりたいが為に長時を度々脅迫して強引に執権職を譲るようにせがんだ。父時頼が病死した翌年に、長時は35歳の若さで病没するが、早く自分が執権になりたい時宗が裏から手を回して葬ったとも言われている。大河ドラマでは長時は暗殺されており、視聴者から「史実と違うじゃねーか!」と非難されたが、あながち嘘ともいえない。

執権職は一族の長老北条政村に移り、自分は連署、つまり副執権として執権を支えると称しながらも遊び呆けるニート三昧の生活を送るようになる。ニート生活中の時宗のたしなみは宗尊親王とカラオケを歌う事だったが、ある日あまりの時宗の音痴っぷりに親王がこらえきれずに噴出してしまった事が怒りの琴線に触れ、親王の排斥を目論むようになる。時宗は自分の館に執権を含む幕府の重鎮を集めて、「宗尊親王の歌には幕府謀反への叛意が暗示されている」と主張した。そもそも将軍が家臣の北条氏を討とうとする行為が「謀反」に当てはまるのかどうかは、日本語としてみても奇妙ではあったが、北条氏の圧倒的な権力と武力にモノを言わせて無理矢理罪をでっち上げて、親王の将軍職を更迭し、京都へ強制送還した。次の将軍・維康王は3歳であり、もはや傀儡同然であった。

さて時宗が連署とは名ばかりのニート生活を過ごしているころ、モンゴル帝国(蒙古)の属国となっていた北の高麗(朝鮮半島)が「俺達だけモンゴルの属国になって奴らがのうのうとしてるのは不平等ニダ」と日本征伐を元に促す。蒙古は属国の癖に生意気にも命令すんなと高麗の進言を一蹴したが、舌先三寸の詐欺師マルコ・ポーロが日本に一度も来たこともないにもかかわらず、日本には湯水の如くに黄金が沸いて出てくる金脈が無数にあり、その金力で日本は繁栄していると口から出任せで言った為、クビライはすっかりそれを信じきってしまい、いきなり日本に属国か蹂躙かの最後通告をけしかけた。無数の金脈があるなど根拠のないでたらめであり、時宗ら日本人も初耳であった。ところがこれを聞いた時宗は、日本には無限に金の沸いて出る金脈があるというマルコの妄言を信じ込んでしまい、全国の御家人達を駆り出して金脈の調査を徹底して行わせた。無論そんなものが見つかるはずも無く、嘘っ八であることを悟った18歳の時宗は逆切れし、自身が執権となって逆に蒙古に対して宣戦布告した。時宗は大田文という土地台帳を作成して、諸国の田畑の所有状況を正しく把握することに努めつつ、異国警固番役を設置し、九州に住んでいる御家人や九州に所領を持つ関東の御家人らに、北九州海岸等の警備を交代で命じた。

これに対し鎌倉幕府内部の意向も日本の世論も真っ二つに割れ、反北条であり、雅を嗜む宮中の公家らはこの国難に際し両国の融和を推進、国を守るために戦おうとする北条一門を野蛮だと激しく非難した。蒙古襲来に専念したい時宗は、後深草上皇と亀山上皇の兄弟仲が悪いことを利用して、「今の天皇は亀山上皇の子の後宇多天皇だが、次の天皇は後深草上皇の子(後の伏見天皇)とする」と通知したことで、朝廷は内紛が激化して、時宗の対外政策に口を挟む余裕をなくすことに成功した(後の南北朝時代の引き金となる)。そして朝廷が作成した蒙古宛の返書を握り潰し、蒙古の使者を追い返したうえで、蒙古の脅威から日本を守る為、権力を北条本家(北条得宗家)に集中させるための大同団結宣言をする。幕府の地盤は磐石かに思われたが、北条氏傍流であり、北条氏でありながらアンチ得宗の立場を標榜する名越北条家の名越教時がこれに異を唱える。しかし名越北条家は詰めの甘い先代名越光時がクーデターに失敗したため著しく権力が低下しており、存在そのものが忘れ去られていた。名越教時は野党のように時宗の政策をことあるごとに非難し、あんな若造に幕政は任せられない、我々真の嫡流である名越家こそ幕府をリードするに相応しいと自己アピールを行う。しかし時宗にとっては名越流など聞いたこともない馬の骨であり、相手をするだけ時間と労力の無駄、と無視を決め込んだ。すると名越教時は逆切れし、時宗が更迭した宗尊親王を担いで、いきなり謀反を起こす。

時宗には異母兄北条時輔がいたが、庶子という理由で長男にも拘らず家督を相続出来なかった事から時輔は屈折しており、常々時宗に羨望と憎悪の入り混じった視線を向け、ストーカー行為を繰り返していた。時宗は身の危険を感知し、何かしら理由をこじつけて時輔を粛清できないか思索した。名越教時はこの腹違いの兄時輔を抱え込む陰謀を画策。果たして時輔はその陰謀にうまい棒たったの3本でホイホイ篭絡されてしまう。実は時輔は名越教時に加担しておらずいつも通り時宗のストーカーを行っていたとも言われる。だが時宗は兄を抱え込まれた事で劣勢になるどころか、ストーカー行為を繰り返すやっかいいな兄を始末する千載一遇の好機であると躍起になる。時宗は兄弟である建前上、断腸の思いで名越ごと兄時輔を粛清すると宣言。しかし言葉とは裏腹に、名越館と時輔の館に兵を差し向けよと命ずる時宗は喜色満面の面構えであった。所謂二月騒動と呼ばれるこの事件で、時輔、名越教時は粛清され、教時粛清の際に名越館に居た教時の兄の名越時章もついでに粛清された。宗尊親王は亡父の供養と称して出家させられ、親王の側近だった公家や、名越と親しい御家人らも処罰された。その後、名越時章まで討ったことは誤りではないかという批判が沸き起こると、時宗はすぐさま掌を翻して、家臣が勝手に暴走してやったことで誤りであったとして、家臣の5名を処刑して、自身の責任回避に成功した。現代の政治家が不祥事が起こると、秘書のせいにして自身の責任回避をする事例がみれるが、その原点は時宗かもしれない。但し名越時章が持っていた九州の守護職は時宗に罷免されたまま、時章の子らに与えられることはなかった。九州は蒙古襲来の主戦場になるとみられたため、名越北条家が九州にいては邪魔だったためであろう。

さて不穏分子の始末に努める一方で、時宗は蒙古から度々遣わされた使者を九州にとどめて追い返し続ける一方で、逆に蒙古に使節団を派遣して、敵情視察を行う。ついに蒙古侵攻を決意するが、クビライに先手を打たれる。大船団を率いて博多に迫る蒙古軍に対し、時宗は戦力差など全く考えず、こっちから仕掛ける手間が省けたと満悦の様子であった。このときの時宗の対応に、一族の知恵者北条実時は「日本オワタ\(^o^)/」と絶望に満ちた言葉を残している。

蒙古襲来、そして[編集]

蒙古襲来の混乱に乗じて日蓮が国が滅ぶと称して過激な布教活動を開始し、他宗の糾弾を始めた。時宗は生意気な坊主をお仕置きしてやるつもりで呼び寄せる。弁論には自信を持っていた時宗は糞坊主如き簡単に論破してくれるわと勝気になっていたが、逆に散々論破され醜態を晒す。時宗は逆切れし、懐刀の平頼綱に処刑を命ずる。しかし、太刀を振り下ろしても日蓮の肌が異常に固く、斬れないばかりか刀の方が折れてしまう始末であった。おそらく日蓮がカルシウムの過剰摂取していたことが、彼の身を救ったのである。日蓮の支持者たちは強く反発し、鎌倉が騒然となったため、やむをえず日蓮を助命して流罪にした。宗教の力の強さを知った時宗はその後、踊り念仏の教団を率いる一遍が鎌倉へ入ろうとした時は、最初から「鎌倉立入禁止」にして追い返した。

さて蒙古襲来は二回あるが、二回とも時宗本人は鎌倉で自宅警備を行っているのみであった。最初の蒙古襲来である文永の役で、蒙古軍が対馬に上陸したという知らせを受けた時宗は、ただちに大軍を編成して九州へ派遣しようとしたのだが、実は九州から鎌倉への伝達に時間がかかっていて、その知らせが鎌倉の時宗のもとへ達した時には、すでに文永の役が終わった後であり、まさに後の祭りであった。もともと時宗は野蛮人に我ら大和民族が負けるはずが無いと楽観していたが、百戦錬磨の蒙古軍は日本軍を翻弄、目潰しや金的蹴り、タバスコ放射などの反則技で日本軍を翻弄し、日本軍はボコボコにされる。時宗があらかじめ派遣していた平頼綱が九州御家人達との間に齟齬を起こして不協和音が生じ、統率力が欠けていたことも、日本軍が劣勢に追い込まれた原因であった。重大な人事ミスであり、安達泰盛辺りを派遣していればこんな事にはならなかったのではないかと今でも非難されている。

それでも日本軍は奮戦し、蒙古軍を一旦海上に引き揚げさせるまで押し返す。その夜、嵐が押し寄せ、高麗人が作った蒙古の船は皆手抜き工事が施されており、長い船旅と立て続けの戦に耐えられなくなったのか、船体が音を立てて軋み船団は次々と瓦解、船団は悉く海の藻屑と化した。

辛勝した日本軍だが、多くの損害を被った。時宗は鎌倉と前線の命令系統を円滑にするためだとして、西国、九州の多くの国の守護を更迭して、後任の守護を北条一門で固めた。さらに蒙古から降伏を勧めるために来日した使者を初めて鎌倉まで呼びつけたうえで処刑し、蒙古との和睦を主張した連署の北条義政を更迭して後任の連署をしばらく空席にして、自身への権力集中を強化した。すなわち時宗は、将軍宗尊親王を「謀反」を企んだとして更迭し、朝廷も分裂するように仕向け、自分の意に従わない北条一門を武力で粛清し、一方で自分の意に従う北条一門を次々と守護に任じ、執権を補佐する連署もしばらく空席にしたことで、絶大な権力が時宗のもとへ集中する形となった。さて時宗は日本軍が圧勝したと勘違いしており、戦勝の勢いに乗じて蒙古を侵略して大陸を掌中に収めようと野望を抱く。執権のあまりにも度が過ぎた暴挙を危惧した北条実時安達泰盛らは時宗を無理矢理監禁し、蒙古への侵攻を何とか取りやめさせた。時宗は脳味噌にクラッキングを決めているのではないかと憂慮した御家人達はカウンセリングの達人無学祖元から招聘し、時宗にカウンセリングを施した。これは見事に奏功し、時宗は前にも増して気違いさに磨きがかかった。

二度目の弘安の役では、蒙古軍は同じ徹を踏まない為にも事前に天気予報を確認し、快晴の日を狙って攻め込んだが、時宗は鎌倉幕府の支配地でない公家・寺社領からも工事人夫を動員してドデカイ防波堤を博多湾に築き上げ、その上から投石、ゴミのポイ捨て、脱糞などの遠距離攻撃を行って蒙古軍を迎え撃ち、蒙古軍が一旦防波堤から離れて体勢を立て直そうとしたところに今度は博多湾に文永の役直後に開発着手し弘安の役直前に完成された日本軍最終兵器「ウォシュレット」を発動させ、飲み込まれた蒙古軍は海の藻屑と化した。なお一部の蒙古軍は今回は、本州の長門にも上陸したのだが、時宗にとっては「想定内」であり、事前に長門探題を設置して守備を固めていたので、蒙古軍からみれば不意打ちのつもりが当てが外れた。ちなみに、この時も蒙古の船団は高麗人の手によって作られており、お約束の如く手抜き工事が施されていたため、やはり船団は一瞬で藻屑と化した。ある意味、日本の国難は朝鮮によって救われたことになるのだが、時宗達が知る由もない。何はともあれ国難は回避されたのである。

死去[編集]

しかし蒙古襲来後、ウォシュレットや防波堤の開発に大量の軍事費を費やしてしまい、鎌倉幕府の財政は火の車となる。時宗は戦勝により景気もよくなると思い込んでいたようだが、その思惑は見事に外れた。また撃退しただけなので、新たな領土を得たわけでもないので、御家人にくれてやる土地などの恩賞も不足しており、不満を募らせた御家人による暴動、略奪などが多発。所謂「悪党」と呼ばれる野武士の集団も現れるようになる。蒙古襲来よりも、戦後の方が本当の地獄だったのである。それでも時宗は恩賞として、膨大な北条家の領土を切り分けることは思いもつかず、恩賞確保の為に高麗への出兵を目論む。そして軍備補強をしていた最中に流行病で、34歳の若さで死去してしまった。

死因については高麗出兵を無謀と判断した側近による毒殺であるとの憶測が飛び交い、その槍玉に幕府内で権勢を振るっていた安達泰盛平頼綱の二人が挙げられ、以後両者の対立が激化、後の霜月騒動へと進展してゆく。時宗の死後、後継の北条貞時によって泰盛と頼綱は相次いで粛清され、安達家、長崎家の資産を強奪したことによって一時的に幕府の財政は潤い、権威は再興されるも、頼綱の家系の生き残りである長崎高綱などによる横領などが横行し、鎌倉幕府は坂道を転げ落ちるように衰退し黄昏時を迎える。

なお、実は生存しており赤マフラーとして時宗のストーカーを相変わらず続けていた兄時輔はそんな鎌倉幕府を救おうともせず海外逃亡し、そればかりか逃亡する際に幕府の資金の6割方を持ち去って行った。幕府の財政悪化の要因は、この無責任なストーカーの兄にもあると言えよう。

偏諱を与えた人物[編集]



なお、偏諱穴と穴の契りの証であり、時宗はこいつら全員とホモセックス済みである。実の弟や息子とさえホモセックスしていたのである。だがそれも当時の基準では常識であった。

関連項目[編集]

先代
北条政村
執権
第8代
次代
北条貞時
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