三江線

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三江線(さんこうせん)は、かつて存在した島根県江津市江津駅から広島県三次市三次駅に至る、全長108.1kmに及ぶJR西日本の(大赤字)鉄道路線(ド田舎交通線)。鉄道教の聖地の一つでもあり、利用者の半分は鉄道教信者ではないかとも言われていた。

概要[編集]

江津駅発車直後の車内の様子。乗車宗らしき客が数名乗っているのみである(撮影者を含む)。と思ったら普通の客だった。

全区間(108.1km)・全駅(35駅)・全列車、さらには鉄道教徒による聖地巡礼乗車を合計しても、一日に延べ370人しか利用しない(全長108.1kmは東京駅宇都宮駅間、大阪駅相生駅間の路線延長に相当)、日本でも屈指のド田舎を走る、ド級のローカル線であった。現在のところ、ド級のローカル線の中でも超マイナーな存在であることから、恐らく日本人の95%はこの路線を知らないだろうが、鉄道教信者はみんな知っている。

生い立ち[編集]

三江線の名前のとおり、旧鉄道敷設法で「三河國豊橋ヨリ江戸ニ至ル鐵道」とされ、三河江戸を結ぶ東海道本線の並行路線として1930年から建設が開始されるはずだったが、その計画書を山羊に食べられてしまい、どこからどこまでの路線か分からなくなってしまった。関係者が途方に暮れていたところ、ある工事担当者が「これは三次江津だと思います。間違いありません。」と言ったことにより、当初の場所とは異なるもののとにかく建設されることになった。しかし、件の場所は山と川ばかりの物凄い田舎で、「こんなところに建設できるか!」と工事執行者からそっぽを向かれたり、江の川の祟りに遭わされたりしたため、工事は思うように進まなかった。その結果、全通するまで45年もかかり、全通した時にはすでにこんなド田舎にも自動車が我が物顔で走っている時代であったため、こんなカーブばかりの路線は既に時代遅れとなってしまった。

こうして三江線は、最初からローカル線として生まれ、ローカル線としての人生を送ることとなってしまった。線路はカーブばかりなのでろくにスピードが出ず、しかもえらく遠回りなコースを走っていたるため、無駄に時間がかかるというどうしようもない路線であるが、そのどうしようも無さが鉄道教徒の萌え心をくすぐって、鉄道教徒にはこの上ないほどに愛される路線であった。数ある鉄道教徒の宗派の中でも乗車宗には特に愛されて、聖地の一つであった。乗車宗ならば、一度は三江線に乗らなければいけないとされていた。

なお、三河と江戸を結ぶはずだった元祖三江線も、二俣線として一部が開通し、その後紆余曲折を経て、現在も天竜浜名湖鉄道として運行されている。決して、かつて徳川家康が伊賀忍者を使って逃亡ルートの一部になった「三重(みえ)県」とは読み方も関係もない。[テストに出るよ!]

このように生い立ちもコースも波瀾万丈な三江線。こんな路線だから鉄道教以外の乗客に恵まれるはずもなく、路線そのものは超ド級マイナーな知名度だったものの、黒い、いや赤い表紙のリストに関しては常に上位争いに顔を出していた。それでも、開通後もしばし悩まされた江の川の祟りそして大人の陰謀にも負けずしぶとく生き抜き、ついには目の上のタンコブだったライバルまでをも蹴落とし、ギネス級の秘境路線を目指す・・・はずだった。しかし、ついに親会社が究極の妨害工作を決行。JRとしての存続は極めて困難になってしまった。本音としては、「すぐに悪天候で運転見合わせするし、空気輸送から経営的にもやってられん!」との地元意思と合致した事や柔軟ダイヤが組める代替バスにする事で鉄道教の目を反らす意味も含まれている。

それからというもの、地元自治体が「乗らずに残そう三江線」を合言葉に、JR西日本に対して存続運動を続けた。自治体にとっては公共交通手段の維持が目的ではなく、JRから地元自治体に払われる固定資産税みかじめ料が目当てであるので、かつてローカル線を維持するために行われた第三セクター化には断固として反対の意向である。そんな不純な理由だから、消えてしまうのだった。そんな訳で固定資産税の支払いだけでなく、解体・撤去費用とかもケチるために路線・駅施設は地方自治体に丸投げされた。

そして、2018年3月31日、列車に猪がぶつかって廃止。たくさんの人が猪に合掌した。

本当に最後の最後まで波乱万丈な路線であった。

運行形態[編集]

口羽駅発車直後の車内の様子。江津から乗っていた巡礼者たちは、ここまでで全員脱落してしまった(撮影者を除く)。誰にも掴まれることのない吊り革が、空しく揺れている。

列車は一日に各区間の上下線合わせても10本程度(直通は江津→三次2本、三次→江津は1本のみ)しか走らない。余りに列車が少ないため、後述のように線路を緑地として活用する試みがなされている。他のローカル線で見られるような保守工事のための長い昼休みは設けられていないが、これはこの路線がきちんと夜間に保守工事をされていることを意味するのではなく、保守工事そのものがなされていないことを意味しているのに他ならない。このため線路と財布が痛まないように、また鉄道教徒がゆっくり観光できるように、列車はとてもゆっくりと運転される。

終電の出発は夜の19時で、21時には全ての列車が走るのを終え、翌日に備えて深い眠りに入ってしまう。田舎の人はきっとみんな早寝なんだろう。

車両は全てキハ120系気動車の単行運転であった。もちろん全部ワンマン運転であり、都会の人が初めて見たときにはバスに見間違う可能性が80%だといわれている。本当に代替バスになってしまったけど、直通は地元民に需要で流石にない。ここからバス路線のサバイバルが始まる。

行き違い設備は三次と江津を除く全33駅中5駅しかなかった(石見川本・浜原・石見都賀・口羽・式敷の5つだけ)。

特に江津から石見川本までの32㎞においては行き違い設備はない。正確に言えば何か所かにあったが、JR西日本の陰謀・・・もとい、路線維持のための徹底的な合理化という苦肉の策でなくなってしまった。結局これが増便の名を借りたバス転換後のシュミレーションを容易にするなど、自らの首を絞める皮肉な結果となるのであった。

廃線直前の動向[編集]

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ナニモノかがウィキペディアに「三江線クルーズ」の項目を執筆しましたが、要出典厨削除厨の暗躍により削除されてしまいました
  • 2004年、崩落した岩に列車が衝突した事件を受け、この年から三江線必殺の徐行運転が始まる。
  • 2006年夏、集中豪雨により壊滅的な被害を受ける。一時は廃止も囁かれたが、翌年不死鳥のごとく復活する。
  • 2010年春、JR西日本社長が「赤字ローカル鉄道バス転換案」を打ち出した。今後の展開に注目!
  • 2012年、日本一乗客が少なかった赤字ローカル線岩泉線が廃止の方針を打ち出したため、「ナンバー2」の呪縛から解き放される可能性が出てくる。
  • 2012年秋、12月31日までの期間限定で「バス」により廃止後のシミュレーションもとい増便実験を行う。通常の2倍以上の便数にし、最後はスクールバスまで運休させる涙ぐましい努力を試みるも、あまり乗客はいなかったようだ。
  • 2013年夏、再び集中豪雨により壊滅的な被害を受ける。今度こそ廃止か?の声の中どうなるか。今回も不死鳥のごとく復活したら、「フェニックス線」の称号を与えてもいいかもしれない。
  • 2014年春、岩泉線が正式に廃止される見込みになったため、(その時まで存続、復活すればだが)日本一乗客の少ない路線に昇格する予定。しかし、県内の同士である木次線をはじめ留萌本線予土線あたりがその座を虎視眈々と狙っており、今後も目が離せない。(当面は大丈夫だろうけど)
  • 2014年4月1日、目の上のタンコブだった岩泉線が廃止されたとともに、2014年7月に全線復帰のメドもたったため、晴れて日本一乗客の少ない路線に昇格した。今後は愛称「フェニックス線」とすることを真剣に検討しているとかしていないとか・・・
  • 2015年10月、「フェニックス江の川鉄道」の愛称も決まり、更に上り(?)調子になると思いきや、JR西日本がまさかの「やってらんないので」廃止するとの意向表明。沿線市町村に挨拶回りを始めると地元新聞に報道される。今後の展開にますます目が離せなくなりそう。
  • 2015年秋、廃止意向を表明した途端、一部列車に立ち客が出るなど山田かつてない盛況ぶりになるという皮肉。これがいつまでも続けば廃止撤回に繋がる・・・わけないか。ブームとは過ぎ去ってしまうものだから。
  • 2016年9月、地元民(どれだけいるか数えてはいけない)の必死な抵抗、鉄オタの貢献、FBでの場外乱闘なども虚しく、JR西日本から「やっぱダメっぽいから平成30年3月31日をもって手を引く」との正式通告を受ける。地元の熱意(?)で廃止時期を半年延ばしたのがせめてもの救いであった。
  • 2017年7月、『三江線クルーズ』と言う石見川本鉄道研究会が分かりやすいコミックサイトが書籍化もされ、頭の硬い人の記事で立ち上がったが電車でDと同じ運命を歩んだ。
  • 2018年1月、年末年始も3両編成で運転しても乗れるかどうかがの次元だったが、遂に廃線理由の1つであった大雪で石見川本駅~三次駅間での不通路線の本領発揮した
  • 2018年2月、列車不通区間は浜原~三次駅間になったものの、山陰本線側が一部運休だったり不通区間もタクシー輸送なので誰も気にしない。元祖秘境路線と同じ末路を辿ることになるのかとの声もあったが、なんとまたもや復活!「フェニックス線」の愛称は伊達ではなかった(ここまできたらただの悪あがきともいうが)。
  • 2018年3月、「三江新幹線」による老朽化と強風が拍車を掛け、浜原駅の駅舎が吹っ飛び崩壊した。事前廃線は確実になりそうな勢いであったが、落石連続でも岩泉線みたいには敗北せず意地っ張りな「フェニックス線」の復旧っぷりは廃線日まで続いた。
  • 2018年3月31日、たくさんの鉄道教信者のみならず命を懸けた猪にまでに見守られながら廃止した。始発でさえ2両に250人以上乗るくらいの混雑状況であり、この日に限っては山手線以上の路線になった。
  • 2018年4月1日午前1時、国土地理院の地図から三江線が消えた。国土地理院の仕事は早い!

沿線風景[編集]

江津-浜原間[編集]

三江線で行われていた線路緑化。手抜き?いいえ合理化です。
水害対策のため、一部の橋梁は流れ橋となっている。

1930年より建設が始まり、1937年には開通した三江線の中では最も早く開通した区間。うねうねうねうねとひたすらに江の川の川沿いを走る区間。本当に川沿いを走るので、過去に水害で何度か流されている。この区間は始終30km/h程度のゆっくりとしたスピードで走った。

あまり速く走らないのは、速く走ると山の神様が怒り出して洪水が起きたり、線路が傷んでJR西日本の財布も痛んで、最終的には廃線になってしまう可能性があるためである。というか、線路が余りにボロいので、あんまり速く走ると川に落ちてしまうかもしれない。あんまりゆっくり走るので、50km程度の距離なのに(直線距離では35kmにも満たない)、2時間もかかってしまう。

また、地方の鉄道には特によくあることだが、通常周りが山ばっかりで緑がいっぱいでも、線路上には緑が無い。線路の上は列車が走るために使うので、手入れをせざるを得ないのはしょうがないこととされるが、この区間では列車は一日に上下合わせても10本程度しか走らないため、余りに列車の本数が少なくて、線路の上を更地にしておくのはMOTTAINAI!!という運動が起こり、試験的に線路上を緑化することにした。

さらに夏には、線路の上ばかりか線路の側面や頭上も草木が伸び放題となっており、一層緑化を促進していた。車輛のガラス窓やボディに小枝や葉をバチバチと擦らせながら走ることで、天然資源を活用した車輛清掃まで兼ねており、まさしく究極のエコ鉄道であった。

これで存在感の薄いローカル線が、地球温暖化の防止に貢献するのではないかと地元の期待を集めていた。JR西日本も、保守工事の省略と地球温暖化対策を兼ねた、財布にも地球にも優しく、イメージアップにもなる合理的な方法であると歓迎していた。そのおかげで、あちこちに25km/h制限とかいう標識が立ってしまい、ぜんぜんスピードがでないが、田舎なので誰も気にしなかった。

このようにのんびりした区間であるが、そのゆっくりさがどれくらいかというと、石見川本駅での乗客の忘れ物を届けるため、地元の人が石見川本駅から川戸駅まで車を飛ばしたら余裕で間に合ってしまったというウソのようなホントの話が成り立ってしまうほどであった[1]

浜原-口羽間[編集]

やっと1975年になってから鉄建公団によって建設された、もっとも新しい区間。浜原までのうねうねうねうねした線路とは打って変わってまっすぐ!である。枕木もコンクリート製になっていて、単線であることを除けばそこらの幹線と同等の設備を持っている。あんまりまっすぐ線路を作ってしまったので、トンネルばっかりである。またあんまりまっすぐ!に線路を作ってしまったために、橋の上に駅を作るなどという暴挙にでた箇所もある。

こんなにたくさんの長いトンネルを掘ってまでまっすぐ!な線路を作るには、さぞかしお金がかかったことであろうし、こんなド田舎にこんな豪華な線路を、まして橋の上の駅なんて作る必要があったのかと訝る人もいようが、これには重大な理由がある。通常気動車はトルクコンバーターを介して車輪を回す「変速段」と、クラッチでエンジンと車輪を直接つないで回す「直結段」を持っている。しかし直結段は、列車の速度がある程度上がってくるまでは使わない。三江線のこの区間以外のように、やたら線路がカーブしていたり保守工事の省略、いや線路の緑化を行っていて、制限速度が30km/hだと、直結段のお世話になることはまず無い。

しかしこの区間で使われていたキハ120系気動車は、なんとその直結段を二段も持っているのだ。そのためあまりゆっくり走ってばかりいると、この高性能なキハ120系気動車は、「俺の直結段には何の意味があるんだ?僕の存在価値は無いんじゃないだろうか」と、中ニ病のような状態に陥り、最終的には鬱病になってしまう。それでは正常な運行ができなくなるため、キハ120系気動車が直結段を存分に生かすためのレーシングコースとして整備されたのがこの区間である。1975年には直結段を二段ももった気動車は走ってなかっただろうとか、そんなことは言ってはならない。一応、車庫と言う名のお休み処への移動としての役割で鬱病にならないもう1つの対策として、山陰本線の江津~浜田間の1日1往復の直通運行もあるけど、「浜原」と勘違いしてはいけないし、地元民はそんな事なんて誰も気にしない。

とにかく、この区間は前後の区間に比べると格段に速い[2]ことから、「三江新幹線」[3]と呼んでいるファンもいた。

浜原駅には「三江線全通記念」と記された石碑が立っており、その建立者の署名は「衆議院議員細田吉蔵」とある。細田吉蔵とは、いつだったか官房長官をやっていた気がしなくも無い細田博之衆議院議員の父親であり、1936年に当時の鉄道省に入り、戦後は運輸省で鉄道監督局国有鉄道部長まで上りつめ、その後1960年に運輸省をやめて政治家になってからは国鉄の顧問に就任していた人であり、こんな話をするといわゆる検閲により削除の臭いがする気もしてくるが、30年以上も昔の話だからもう誰も気にしないだろう。

口羽-三次間[編集]

口羽駅付近の車窓風景。

1955年から1963年にかけて開業した、三江線の中では二番目に古い区間であり、やはり線路はうねうねしているが、二番目に新しい区間でもあるので、浜原までほどうねうねうねうねとはしていない。制限速度も、浜原-口羽間に比べるとやはりかなり厳しくなっているが、浜原までの区間に比べるとやや緩い。

しかしやっぱり線路緑化を行っている場所があり、そういうところでは制限速度が25km/hとかになるのでゆっくり走る。北陸線三セク化反対活動家がこのたびに拍手をする。夜になって乗ると何も見えなかったが、明かりがほとんど見えなかったので何も無かったのだろう。

三江線の主な駅[編集]

江津本町駅
本町、というからには駅前にはそれなりに街が広がっている、と思うかもしれない。しかし、駅前には人家はほとんどない。
1日平均の乗車人員は2006年度の統計にてゼロを記録しており、1人いるかいないかという状態である。
石見川本駅
起点終点を除いては三江線唯一の有人駅。直営駅か業務委託駅かなどこの際どうでもいい。とにかく有人駅だった。運行時代は徹底的な合理化(行き違い設備の撤去)のせいで2時間近く動けないこともあり、強制的に下ろされる便があった。この便は時期によっては鉄道教に占められること、また大きくない町で飲食・観光とも寄るところが限られてしまうこともあり、発車時刻まで(結果的とはいえ)行動を共にすることも珍しくなかった。
浜原駅
三江北線の終着駅。この駅で終点となる列車がほぼ全てである。そう聞くと大きい駅だと思ってしまうが1日の平均乗客数は10人にも満たない。隣の粕淵駅の方が28人と多い。
石見都賀駅
「三江新幹線」区間で唯一行き違い設備があった駅。しかし、開業から廃止までこの設備が有効活用されることはなかった。
宇都井駅
地上30メートルもの高さの上にホームと線路がある。116段もの階段を登らないとホームには上がれない。エレベータなどという便利なものはない。バリアフリー?何それおいしいの?
口羽駅
三江南線の終着駅。1日の平均乗客数は3~4人と少なく周りは集落があるのみ。この駅で終点となる列車もあり、こんなところで下されたら発狂してしまうかも。駅前にあるトイレはきれいだが、ここに自販機ってあるの?
長谷駅
ただでさえ少ない列車のうち半数近くが通過する。三江線で唯一通過列車がある駅で、三次方面の終列車が午前9時で、江津方面の始発が午後2時である。ひょっとしたらこの駅はJR西日本にいじめられているのかもしれない。でもこんな田舎の駅は誰も気にしないだろう。
増便実験のバスは通過しない。そのかわり、バスは千金駅を通過する。

脚注[編集]

  1. ^ 石見川本鉄道研究会・三江線クルーズ第48話より、実話をもとにしているというからきっとホントなのだろう。
  2. ^ ただ、あくまでも「三江線の中では」というレベルなので、他路線と比べてはならない。
  3. ^ 石見川本鉄道研究会・三江線クルーズ第9話でも取り上げられている。

関連項目[編集]