ミドリマキバオー
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
ミドリマキバオー(Midori Makiba O)は日本の競走馬。日本中央競馬会・某地方競馬所属で、1996年の日本ダービー・有馬記念を制した。カスケードのライバルの一頭でもある。半弟妹にマキバコ・ブリッツがいる。「白い珍獣」「白い奇跡」などの別名でも呼ばれた。
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[編集] 出生
1993年、みどり牧場において、父タマーキン・母ミドリコの仔として産まれる。
馬格が他の仔馬と比べても非常に小さく、成長後ですらサラブレッドながら人間が持ち上げることができたという。後の主戦騎手山本菅助から犬だと勘違いされたという逸話もある。また、この馬格の小ささから騎手が乗れるかどうかも心配されたほどで、山本が乗れなければデビューもできなかった可能性がある。
逆に、大きく広がった鼻孔やサラブレッドとしては非常に太い脚など、個々のパーツは体の小ささに反して大きく、これが競走馬としての能力の源になったともされている。獣医師の診断によると、心臓もまた体格に似合わないくらいの大きさであったらしく、「デコトラのエンジンを軽トラに積んだようなもの」と表現していた。その割合、なんと体重の4%(普通のサラブレッドは1%程度)。
しかし、そのちぐはぐな外見は競走馬としては非常に見栄えが悪く、頭の悪そうな顔立ちなどもあってか当初は生産者兼馬主の飯富源次郎もまったく期待をしていなかった。父母に似ない珍しい白毛馬ということもあり、「本当にタマーキンの種だろうか」とまで疑っていたという。
[編集] 戦歴
※以下、特別な理由が無い限り旧年齢表記で統一される。
[編集] 若駒時代
1995年、飯富源次郎の兄である美浦の飯富昌虎厩舎に入厩する。その珍妙な馬体からデビュー前より注目を集め、ある種の人気を博していた。(もちろん、競走馬としての期待はまったくされていなかった。)
1995年夏、山本菅助を鞍上に3歳新馬戦でデビューする。一時は競走中止になりかけたものの、2番人気に応えて勝利した。続けて函館3歳ステークス、京成杯3歳ステークスを連勝するが、後にライバルとなるカスケードとの初対決となった朝日杯3歳ステークスでは3着に敗れる。
1996年、ミドリマキバオーの所有権がモンゴル国籍のドルジ氏に委譲され、JRAにおいては初の外国人馬主が誕生した。
4歳の春初戦に選んだスプリングステークスは勝ったものの、続く皐月賞ではカスケードの2着に甘んじてしまう。ダービー前に青葉賞を挟むが、ここもベアナックルの2着に敗れて不安を見せ始める。しかし本番のダービーにおいては生き返ったかのような劇走を演出。果敢にハナを奪いスローペースからの逃げ切りを図り、カスケードとともに史上初となる同着によるダービー馬の座を射止めた。この競走は史上に残る決戦として、競馬ファンからの人気が高い。
秋初戦、スタミナ増強を目して障害未勝利戦を選ぶという奇策を試みるが、息が入りまくる障害戦が平地の長距離重賞の試走になるわけもなく、本番の菊花賞では距離が持たず4着に敗れる。その後有馬記念に向けて秘密特訓を繰り返し、5番人気で迎えたレースにおいて、他馬を大きく引き離して優勝する。(このレースが最初で最後のカスケードに勝ったレースとなっている)
[編集] 古馬時代
1997年、ドバイの招聘により団体戦として開催されたドバイワールドカップに参戦する。予選競走において1R・3R・5Rに出走したが、輸送時の経由トラブルによる疲れもあってか、1Rでは5着、3Rでは競走中止となってしまう。そして5R、ドバイ所属のエルサレムを追い詰めての2着となるが、直後に心房細動を発症。併せて脚部に故障が発生、倒れてしまう。
両前脚骨折と予断を許さない状態で、本来ならば予後不良として安楽死処置が取られるところを、生産者の哀願により長期の療養生活に入る。同時に、JRAからの登録を抹消した。15戦7勝(うち、障害1戦1勝、海外3戦0勝)
1999年、7歳にして競走馬として復活となったミドリマキバオーは、某地方競馬に登録される。ダイオライト記念、帝王賞、南部杯などのダートグレード競走に積極的に出走するも、やはり事故の後遺症と年齢的な衰え、長期のブランクは確実に競走馬生命を奪い去っており、大きなレースではすべて着外に終わっていた。
1999年末、新設競走ジャパンチャンピオンシップにNRA特別代表枠として出走する。同レースの前身であった有馬記念の制覇から、実に3年が経過していた。大方のファンからは過去の遺物と見られ、10番人気に甘んじたものの、まるで全盛時の実力を取り戻したかのような劇走を見せ、3着に食い込んだ。1着は奇しくも半弟のブリッツ、2着はかつてドバイで激突したエルサレムであった。
[編集] 引退後
ジャパンチャンピオンシップの後に海外を転戦。その後功労馬としてみどり牧場に繋養されることとなった。
本来ならば種牡馬にする話が出てもおかしくない戦績を残しているものの、体格的・気性的な問題点から見送られた。一説には馬主の意向によるものともされている。
現在はみどり牧場にて余生を過ごしている。今なお健康に過ごしており、メディア露出は少ないものの、2006年にはディープインパクトの凱旋門賞挑戦に際して週刊プレイボーイの企画でベアナックルとともに観戦ツアーを行った。
[編集] 評価
GI2勝という戦績ながら、後期の低迷の印象からかあまり評価されない傾向にある。有馬記念を制しているものの、同年の年度代表馬に選出されていない(同年の年度代表馬はGI3勝のカスケードだが、4歳限定GIのみということで選出に疑問の声が生じてもいた)ことも影響しているとされる。
一方で、アイドルホースとして各マスコミに大いに取り上げられ、競馬人気を盛り立てた功労者の側面もある。従来の馬券購入者層を中心とした競馬ファン層以外にも認知され、競馬のイメージ向上に繋がったとして評価される。その過剰人気ぶりは青少年層にも広く浸透しており、週刊少年ジャンプの表紙にミドリマキバオーのグラビアが掲載されたことが何度もある(これは週刊少年マガジンの表紙に昭和のアイドルホースハイセイコーが載って以来の2例目であり、某無敗の三冠馬もさすがにこれは達成していない)。抱かれたい馬NO.1になったこともある。ミドリマキバオーの関連商品は(多分)よく売れ、競馬グッズの売り上げのいくらかはミドリマキバオーの関連商品だったという。
そういった新規ファン層を煙たがる競馬通を自負する人間の間では、ミドリマキバオーを否定することが一種のステータスとされている。
[編集] エピソード
- 関係者の間では、「うんこたれ蔵」という、何とも言えないあだ名で呼ばれていたという。デビュー前からそう呼ばれており、正式な馬名が「ミドリマキバオー」に決定した後も度々使われていたという。


