マルク・シャガール

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シャガールと、彼が気合を入れて描いた自画像(1914年)
「彼は寝てる
彼は起きる
とつぜん描く
教会をひっつかんで教会で描く
牛をひっつかんで牛で描く
イワシで
頭で 手で ナイフで
雄牛の腱で描く
小さなユダヤの村のあらゆる薄汚れた熱情で描く
ロシアの田舎の激しくなる性活動のすべてで描く……」
マルク・シャガール について、ブーレーズ・サンドラール
マルク・シャガール(Marc Chagall, イディッシュ語: מאַרק שאַגאַל‎‎, 1887年 - 1985年)は、ロシアに生まれあちこちの国で活躍した、ユダヤ人の画家。ウィキペディアには「生涯、妻ベラ(ベラ・ローゼンフェルト)を一途に敬愛していたこと、ベラへの愛や結婚をテーマとした作品を多く製作していることから別名「愛の画家」と呼ばれる」と書いてある。画家はだれしも愛に生きているので、この別名にはあまり意味がない。
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「マルク・シャガール」の項目を執筆しています。

ロシア[編集]

生地のヴィテブスクはポーランドに近いユダヤ人居住区で、ロバヤギニワトリが身近にいた。親は厳格なユダヤ教徒であり、家には自分の他に8人兄弟がいて、ふたつの意味で息苦しい環境だったというが、そのわりに、彼は一生、故郷の牛さんロバさんヤギさんニワトリさんを描き続けている。流しのヴァイオリン弾きやシナゴーグもよく出てくるし、もっと言えばモーセも描いている。しかしシャガールは特定の宗派に属しているとは生涯認めず、それどころかキリスト教をはじめ他のさまざまな宗教からの影響があると言いさえした。彼は長生きし、わりとよくしゃべった。

シャガールはユダヤ教の正統な教育をきちんとは受けていない。両親の意向で初め寺子屋みたいなところに通って聖書の物語やヘブライ語(ユダヤ教の聖書の言葉。キリスト教徒にとってのラテン語のようなもの)を学んでいて、物語にはそれなりに興味を持ったが、ヘブライ語が全然できなかった。そもそも絵を描くことはモーセの十戒のひとつ、偶像崇拝の禁止に反するので、画家になりたいシャガールが正当なユダヤ教徒であることを望むわけがない。そこまでがちがちでなく、歌や踊りを許容するハシディズムという宗派もあるが、その信徒と言えるほどには教義を知らなかった。シャガールの宗教観は、先生の話の面白いところだけ真面目に聞き、なんとなく親について教会に通い、近所のヴァイオリン弾きに親しむ中で形作られていった。中途半端かもしれないが、自然である。

中学はロシア語の学校に行き、ここでユダヤ社会の外の世界を知る。キリスト教の知識も入ってくる。ただこれも基本的には聞きかじっただけで、面白いところだけはそれなりに研究した。その成果が結実した傑作、1910年ごろの『聖家族』をここに紹介しよう。

アイーン

聖家族と言えばもちろん聖母マリアに抱かれた幼いキリストと父ヨセフであるが、この絵ではマリアは本(おそらくカバラ)を手に持ち、キリストはヨセフの膝に座っている。なにより、ヨセフとマリアがユダヤの肉屋の夫婦みたいになっているし、キリストはユダヤ教のラビみたいな髭の生えたちっちゃいおっさんだ。さらに彼らの脇では豚が屠殺されかかっている。ふざけんな。これが中学の教科書の落書きではなく、成人したあとに描かれたのである。ポグロム(キリスト教徒によるユダヤ教徒の虐殺)を直接目撃したり、自分も殺されかけたりしたことのある画家によって。

シャガールはヴィデブスクの美術学校で力をつけ、やがてペテルブルクの帝国美術学校に合格するが、よくある話で、そこの方針が気に入らず、挿絵画家のレオン・バクストに個人的に師事する。バクストは一年ほどでパリに呼ばれてロシアバレエ団(バレエ・リュス)の舞台美術を手掛けて大ブレイクする。

ここで完全に余談だが、売れっ子になったバクストが他の仕事もするようになりバレエ団を離れた時期に、彼に代わって舞台装置を担当した芸術家のひとりにかの有名なピカソがいる。1917年、鳴り物入りで上演されたオペラ『パラード』だが、開始早々ピカソがデザインした、ボール紙の顔をつけたお馬さんや、変な形の箱から窮屈そうに足だけ出して跳びはねる紳士が登場すると、見に来ていた若い芸術家たちは大爆笑、他の観客からも「ふざけんな」「金返せ」などの熱い声援が舞台に降り注いだ。

話がそれたが、シャガールはバクストをほとんど追いかけるような形で1910年にパリへと向かう。

フランス[編集]

パリでシャガールはアポリネールやサンドラールなどの奇人もとい詩人と親交を持ち、アンデパンダン展のアンリ・ルソーや、サロン・ドートンヌのマティスらの絵を目にする。「何をどう描いてもいいのか」と衝撃を受け、一気呵成に描いてみたらいかにもなキュビズムっぽい静物画が出来上がった。翌年のアンデパンダン展に出品し、キュビズムの部に展示されたものの、この枠におさまっていいものか悩んだ。間借りした8角形の変なアトリエ、通称「蜂の巣」では、シャイム・スーティン(強迫神経症)、藤田嗣治(イヤミ)、アメデオ・モディリアーニ(宇宙人)など、わけのわからないやつらがきわめて個性的な創作活動を展開していた。呼ぶ方も困って「エコール・ド・パリ(パリのやつら)」と言っていたくらいだ。そんな中で生き残っていくために不可欠な、強烈な個性が自分にはあるだろうか。脂汗をかいていたシャガールの夢枕に立ったのは、動物の着ぐるみを着た3人の男だった。彼らは腰をゆっくりと揺らしながらダウナーな感じで歌った。「ウーシさーん、ロバさん、ヤギさんよ……なんとなーく、売れそな気がします……」こうしてシャガールは彼にしか描けない動物たちを積極的に描くようになり、絵は売れ始めた。

ドイツ[編集]

ジョージ・グロスの風刺画の一部と、シャガール『農民の生活』

アポリネールの紹介で知り合ったドイツの画商が二度も展覧会を開いてくれて、なかなかの成功を収める。この頃仲良くなった画家に、かなりきつい風刺画を描くジョージ・グロスという男がいて、彼の影響か人物の顔がちょっとグロテスクになる。例に挙げた農夫とヤギの顔もけっこういやらしいが、この路線がかなり受けた。このとき事件がなければシャガールは一生キモい絵を描き続けたかもしれない。

事件というのは、遠距離恋愛中の彼女からの手紙の内容が、どうもそっけなく感じられるようになってきたのである。ヴィテブスクの美術学校で知り合い、パリに来るときにそのまま故郷に置いてきたベラ・ローゼンフェルトである。シャガールは胸騒ぎをおぼえ、愛を取り戻すために故郷へと急いだ。

ロシア[編集]

ヴィテブスクに戻ったシャガールはすぐにもベラ・ローゼンフェルトと結婚してパリに連れてくるつもりでいたが、第一次世界大戦が始まってしまった。

普通なら兵役に就くことになるが、シャガールはどうせ行くならカモフラージュ部隊を、と希望していた。板に動物などの絵を描いてその裏に隠れて攻撃するようなことだと思っていたらしい。こんないたいけな27歳を死なせるのは忍びないと思った知人のコネで、結局、首都の経済局で事務仕事をすることになった。実務に全く向いていなかったため放っておかれるようになり、あまりに暇なので家に帰って絵を描いたり自伝を書いたり子どもをつくったりしていたら戦争が終わり、ロシア革命が起きた。

その頃には未来派(あいつら未来にイっちゃってるぜ派)のひとりとして有名になっていたシャガールは、ロシアに新しい風を吹き込んだように見せたい革命政府からの要請で、ヴィテブスクの美術委員および学校長に就任する。素晴らしい家庭と定職を得て幸せの絶頂にあったのも束の間、政府のためにポスターを描けば「馬を空に飛ばすな。革命と何の関係があるんだ」と言われ、仕事ができないので校長の座も追われてしまう。さらに、ロシア美術界で幾何学的抽象画が最先端としてもてはやされ、シャガールの画風は保守的過ぎると批判され始めたとき、よせばいいのに「はいはい、丸とか四角とか描けばいいのね」と言ってこんなのを描いてよこしてしまう。

ちょっとかわいいのがむかつく

『ヤギのいるコンポジション』。むろんわざとである。ヤギが「やってやったぜ!」という感じの笑みを浮かべている。

このようにして、元々不利なのにますます居づらくなったシャガールは故郷を離れ、首都モスクワの国立ユダヤ芸術劇場の装飾を手掛け始める。ユダヤ人コミュニティの中で生きようとしたのだが、ここでも「すみません、これはリアリズムの劇なので、ヤギを飛ばさないでください」→「嫌です」というようなことが何度もあり、さらに政府が分かりやすいプロパガンダに力を入れ始め前衛芸術を許容しなくなったうえ、国民のうっ憤の矛先をユダヤ人に向け始めたので、シャガールは1922年にロシアを脱出し、リトアニア、ドイツを経由してフランスへと向かう。この時35歳で、以後98歳で死ぬまで一度もロシアに戻ることはなかった。

パリへ[編集]

妻ベラと娘イダを伴ってベルリンに移ったシャガールは、ハイパーインフレの影響でドイツにあった自分のお気に入りの作品が多数売却され、散逸してしまっていることにショックを受けた。それでもあと数カ月でフランスのビザが取れさえすれば、パリでの素晴らしい日々が待っているのだ、そう思って彼は耐えた。

そして1923年9月、パリに着いたシャガールの足は自然に、奇人たちと過ごしたなつかしのアトリエ「蜂の巣」へと向かう。蘇る青春の記憶。仲間との再会をかすかに期待しつつ、シャガールが「蜂の巣」の扉を叩くと、中からしわしわのコートを着たクマンバチみたいなオッサンが出てきてびっくり仰天。聞けば画家でもなんでもなくつましい年金暮らしで、中にあった絵画は管理人がどこかに片付けてしまって行方不明だという。このダブルパンチがあまりにもこたえたのか、以後、シャガールは愛着のある自作のコピーをしばしば制作するようになる。

ユダヤ教の坊さんが嗅ぎ煙草を嗅ごうとしているところ。御法度である。

ここに載せたラビの絵は二枚だが、本当は同じ構図のものが四枚ある。手元に置くために描いた途端に生活のために売らなければならなくなることが続いたためである。だがこの例を見ても分かるように細部がかなり異なるため、コピーというより描き直しになってしまっており、多くの場合、コピーはオリジナルよりだいぶ雑になっている。このラビも元の方が丁寧に描かれているようだ。娘イダの回想によると、それでも何回かはよく原画を観察して正確な模写をしたものがあるそうだから、単にめんどくさがり屋だったのだろう。

パリではわりと良心的な画商がついて定期的に仕事の依頼が来るようになり、あちこち旅行できるようになる。無国籍な感じが気に入ったのか、色とりどりのサーカスの絵をよく描くようになる。そして第二次世界大戦がやってくる。多くの芸術家たちがそれぞれの方法で反戦を訴えた。ピカソは1937年にあの『ゲルニカ』を描いた。その年にシャガールはこれを描いた。

シャガールの革命.jpg

タイトルは『革命』、中央で逆立ちをしている男はよく見ればレーニンだ。ロシアをひっくり返したレーニンをシャガールがひっくり返した。うまいね。でも、ロシア革命のすぐ後に描き始めて欲しかった。あまりに遅い反応である……と言って片付けるのは早計かもしれない。なにしろピカソと違ってシャガールはユダヤ人である。今まさに全国で迫害の対象になっていて、迂闊なことを描けば自分や家族の死を早めることになる。この絵なら、昔の出来事を風刺しているだけだし、遠目に見ればサーカスの曲芸師と観客に見える。大好きなサーカスの絵を描いただけですとうそぶくこともできるわけだ。

シャガールの復活.jpg

せっかくカモフラージュがうまくいっているのに、シャガールは翌年この絵を3等分し、このように上からキリストの磔刑図を描いてわかりやすくしてしまった。昔から、ついやってしまうみたいである。

ナチスの手が迫ってきているのは分かっていたが、シャガールはどうしてもフランスを諦めたくなかったらしい。1940年にドイツ軍がフランス東部に侵攻するが、この期に及んでちょっとだけ逃げて南フランスに家を買うなど迷走していたとき、アメリカ領事に「ええ加減にせんと死ぬで」と言われ泣く泣く亡命する。

アメリカ[編集]

アメリカでフランス解放の日を待ち望み、やっとそれが叶ってフランスへ帰ろうとした矢先の1944年、妻のベラが入院する。以前ロシアからドイツへ移る直前にも、ベラは「貴方の関わった舞台に出たいわ」と勝手に踊りの練習をしていてコケて骨折し出発が遅れるというお茶目をやらかしていたので今度もそうかと思いきや、死んでしまった。

これで出国どころか創作の意欲をなくしたシャガールは翌年まで筆を取らず、やがて創作活動を再開するとベラに捧げる作品を描き続け、彼女を一途に思い続けた……と伝記にはよく書いてある。実際には、ベラの死後すぐに娘がシャガールに30歳くらいの女性をあてがってやっている。ヴァージニア・ハガードという子持ちの人妻だったのだが、1946年にはシャガールとの間に息子ダヴィッドをもうけ、ニューヨーク北部の山小屋に親子3人で7年間暮らしたのち、結婚せずに別れている。息子のダヴィッドは後にインタヴューに応え、「父は朗らかな人で、よく一緒に絵を描いて遊びました」と言っているし、シャガールがめちゃくちゃうれしそうな顔で幼い息子と遊んでいる写真が残っている。パリに帰国した後には、ヴァランチーヌ・ブロドスキーという女をまたも娘イダに紹介され(この子はどういう神経をしているんだ)、1952年、65歳のときに結婚している。なるほど愛の画家だ。ちなみに、ダヴィッド君の存在はこのヴァランチーヌさんとイダによって長いこと無かったことにされていた。

フランス[編集]

シャガールのはじけるような笑顔

1950年にフランス国籍を取得したシャガールは、しっかりした妻や娘に支えられて、あちこち旅行し、ステンドグラスや陶器の絵つけや壁画など新たな分野にも旺盛に取り組み、幸せに過ごしましたとさ。めでたし、めでたし。写真は、陶窯の個人的なスペースをシャガールに占領されたピカソがちょっとムッとしているところです。いいんです、もう。おじいさんだから。
安住の地を得た後のシャガールは腑抜けになってしまったのかもしれません。しかし、その時期の絵は、確かに美しい。

あなたも本当は、こういうのが見たかったんでしょう。

窓辺の花束 夢

ちなみにシャガールは、全裸で絵を描くのが好きだったそうです。しっかり勃起していたそうです。腑抜けじゃないですね。

おやすみなさい。

Upsidedownmainpage.jpg 執筆コンテスト
本項は第35回執筆コンテストに出品されました。