パタパタママ

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パタパタママ(英:Pata Pata Madam)とは、1932年南アフリカヨハネスブルグで生まれた稀代の女性シンガーである。別名、「Mama Africa」。

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概要[編集]

1960年代のアメリカで旋風を巻き起こしたパタパタママは、アフリカ出身の世界的歌手の先駆者であり、なおかつ、その強烈な生き様は、南アフリカはもとより、その後のアフリカ各国の文化に大きな影響を与えている。彼女の生涯のほとんどは自国で行われた差別との戦いであり、その名声は広く世界で知られている。

・・・日本ではあまり知られていないけどね

パタパタ[編集]

全編ズールー語で書かれたこの歌は、1956年の段階ですでに自国で録音されていたといわれている。内容は、「土曜の夜はパタパタを踊ろう!」ということで、はっきり言って詩的表現はとぼしく、まだ見ぬアフリカという異国情緒のみで構成された歌といっても過言ではない。しかし、2009年現在においても、ズールー語の代表曲というとこの歌になるほど世界中に広まっているのは、1967年にこの歌が世界中で大ヒットしたためと、この歌に続く2番目の歌が40年経った今でも現れてこないためである。それぐらい、アフリカの歌というものが世界でヒットするには高い壁がある。なお、その歌詞の中にはズールー語特有の口で鳴らす破裂音が多く含まれており、この点も、それまでになかった異国の音楽という一面を強く見せている。

その後、この歌は2000年に再度録音しなおされており、老いた歌い手でも歌えるバージョンになっている。結局、彼女はその死の寸前までこの歌を歌い続けている。

・・・まぁ、日本では羽の生えた亀が出てくるけどね

生涯[編集]

生まれ[編集]

パタパタママは1932年ヨハネスブルグに生まれた。彼女は、幼少の頃に父を亡くしており、その後、ヨハネスブルグからプレトリアへと居を移し、そこで母と二人暮らしを始めている。

なお、当時の南アフリカは黒人差別自体は存在していたものの、悪名高いアパルトヘイトはまだ存在していない。しかし、悪法として名高いそれが成立されるのは、1948年、彼女が16歳のときである。それまで、彼女はメイドや教師などをしながら生計を立てている。

歌手になるまで[編集]

1949年に結婚した彼女は翌年、女の子を授かっている。なお、そのときの夫とはすぐ分かれたものと思われる。その頃からアマチュアのシンガーとして活動を始めていたパタパタママだったが、1952年、マンハッタンブラザーズというバンドで本格的にデビューを果たす。マンハッタンブラザーズは、1940年代から南アフリカで活躍していたバンドで、スウィングやドォーワップ、ジャズのリズムにズールー語のハーモニーを交えるという、それまでになかった新しい音楽を作り出していた。ここで培われたズールー語を独特のリズムに乗せて歌うスタイルが、その後の彼女の歌を生涯支え続けていくことになる。

ちなみに、彼女の言葉はズールー語がメインだったが、国外で活動するに当たり、本人はまったくしゃべれなかったスワヒリ語などのアフリカ各国の名曲を積極的に取り入れている。そのため、アフリカ中の名曲が彼女を通して世界へ発信されるという図式が出来上がることになり、その結果、「Mama Africa」という一人の歌い手には大きすぎる通称が出来上がることになる。

転機[編集]

徐々に歌手としての名声を確立していく中、彼女に大きな転機が訪れる。それは、1959年キングコングのミュージカルに出演したことをきっかけに、南アフリカ国内での人気を不動にしたことと、同年に制作された反アパルトヘイト映画「Come back, Africa」に出演したことによって、その人気が一気に海外にまで飛び火したことに始まる。アメリカの独立系映画会社によって製作されたこの作品は、南アフリカで3年にわたって秘密裏に撮影されたもので、その内容は、まさに一国の政府が国を上げて人種差別、迫害を行い、人間を根こそぎ土地から排除していく様子だった。その中で彼女の歌う姿が映されていたのである。これは、監督であるライオネル・ロゴシンが南アフリカの民衆の文化にこだわったためであり、その結果、映画の世界的なヒットに乗ずる形で、彼女の名声が世界に広まることになる。

虐殺[編集]

パタパタママの名前が海外でしられるようになっていった1960年3月21日、彼女の故郷であるヨハネスブルグで大事件が起こる。後にシャープビル虐殺事件と呼ばれるこの事件は、武装していない数千人の黒人住民によるデモに対し、警察が発砲したもので、69人が死亡、180人が負傷するという大惨事になった。この直後から、南アフリカ全土で黒人による暴動が頻発することになり、結局、南アフリカ政府は3月31日に全土に非常事態宣言を出さざるを得なくする。追い討ちをかけるように、4月1日にこの事件は国連の決議134の議案となり、南アフリカに対する非難を圧倒的多数で採択することとなる。

別離[編集]

世界中から南アフリカに対する非難が集まる中、実際に差別を知る立場であるパタパタママにスポットライトが当たらないはずはなかった。1959年から始まる全米ツアーで、彼女の名声は確固たるものとなる。

ところが。

その直後、彼女の母親が急死する。国外で活動を続けていたパタパタママが連絡を聞き、急遽国へ戻ろうとした彼女を待っていたのは南アフリカ政府による市民権の剥奪と彼女のパスポートの取り消しだった。そして、彼女の歌は国内では放送禁止の措置がとられる。

彼女は、その後、30年間、祖国の地を踏むことができなかった。

飛躍[編集]

海外に活動の拠点を移したパタパタママは、1960年代の公民権運動と人種差別撤廃運動のまさにシンボルとして、世界を飛び回ることになる。1966年には、アメリカに彼女を紹介してくれた恩人ハリー・ベラフォンテとの共作でグラミー賞を受賞するなど、まさに絶好調だった。そして、翌1967年には、彼女の生涯の代表曲となる「パタパタ」が発表され、世界中に、彼女の歌声と南アフリカ政府の暴挙が知れ渡ることとなった。

迷走[編集]

そんな彼女の活躍はしかし、彼女自身のスキャンダルによって幕を下ろされる。それは、1968年に急進的でテロ活動も辞さなかった黒人解放運動団体「ブラック・パンサー」の創設者ストークリー・カーマイケルと結婚したことによって、急激に彼女の人気は下火となっていく。ちなみに、アメリカに来た直後もトリニダード・トバコ人と2度目の結婚を行っていたことも大きかった。その後、彼女は活動の拠点をアメリカからギニアへと移すことになる。これは、夫であるカーマイケルが当時ギニアに亡命していたクワメ・エンクルマの元で活動することを選んだためである。なお、エンクルマはガーナの政治家であり、当時の第三世界を代表する指導者の一人であった。しかし、1972年にエンクルマが死去するとパタパタママとカーマイケルの間は急激に冷え込み、翌年に再び離婚することになる。

その後、彼女はヨーロッパとアフリカを中心に活動を続けることになる。

成長[編集]

世界中で活動を続けるパタパタママだったが、彼女の後を追うように、数多くのシンガーが南アフリカを巣立って海外で活躍するようになる。そして、そんなシンガーの中に、彼女の一人娘であるボンギがいた。20代を迎えていたボンギは、一人前のアーティストとして、パタパタママと積極的に競演を果たしていくことになる。

蜂起[編集]

1976年6月、再び彼女の故郷ヨハネスブルグで大事件が発生する。ソウェト蜂起と呼ばれる黒人住民の大抗議活動は、白人達の言葉であるアフリカーンス語を授業に導入することに黒人達が一斉に反発したことから始まる。当初、法令が発表された4月の段階では学生達によるストライキが頻発する程度だったが、徐々に運動は盛り上がりを見せるようになり、6月には黒人達の要求を訴えるデモ行進にまで発展していた。

そして、運命の6月16日、小中学生を含めた10,000人もの学生によるデモ行進は、300人の警察隊とヨハネスブルグ南東部のソウェト地区で対峙する。そして、投石と催涙ガスの応酬が行われた後、一人の警官が発砲を始めた結果、死者176人、負傷者1189人に達する大惨事の幕が開ける。

この事件は国内にも世界中にも大きな衝撃を与え、この事件以降、南アフリカの政府に対する反アパルトヘイトの訴えは、白人側からも大きく上がることになっていく。

悲劇[編集]

1985年、50歳をすぎたパタパタママの元に、再び悲しい知らせが届く。それは、ボンギが産褥によって死亡したという知らせだった。このとき、ボンギには3人の子供がいた。しかし、彼女はまともな治療を受けることができないまま死亡したという。当時の南アフリカは海外で活動するような歌手であっても、このような差別が存在する国だった。そのため、パタパタママは、彼女を故郷ではなく、彼女の活動の拠点だったギニアで埋葬することを選ぶ。

現在、ボンギの歌手としての足跡はパタパタママとのアルバムが一つ残っているだけである。

帰国[編集]

娘の死後、彼女はベルギーのブリュッセルに活動の拠点を移す。そして1987年から、サイモン&ガーファンクルで活躍したポール・サイモンとともに、南アフリカの人種差別に反対するコンサートに参加していくことになる。

1990年、南アフリカはついに経済的に行き詰まり、1991年、当時の南アフリカ大統領フレデリック・ウィレム・デクラークアパルトヘイトの撤廃を表明する。そして、黒人の代表的指導者ネルソン・マンデラを釈放し、黒人との対話によって国政を動かすことを決定する。

この歴史的な転換に際して、パタパタママはマンデラから帰国の要請を受けいれ、30年ぶりに帰国。再び故郷であるヨハネスブルグを拠点に活動を始めることになる。

その死[編集]

帰国後も、アフリカを代表する歌手として活動していったパタパタママだったが、徐々にその歌唱力と体力は衰えていった。そのため2005年に引退を決意し、世界ツアーを敢行している。そして2008年11月、イタリアでのコンサートの最中、代表曲である「patapata」を歌い終わった後、心臓発作によってその50年におよぶ歌い手としての人生を終えることになる。享年76。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]