ゼリコ・ペトロビッチ

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ゼリコ・ペトロビッチ (Željko Petrović1965年11月13日- )改めきめんどうしは、2011年に極東の地、日本中央部、だいたい埼玉県当たりに存在する浦和市に表れた人間のクズである。彼の恐るべき魔力によって、5年前に東方の地を無敗で征した赤い勇者たちが、わずか半年で自滅する。

・・・と、言うのは冗談である。

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「ゼリコ・ペトロビッチ」の項目を執筆しています。

本当の来歴[編集]

ゼリコ・ペトロビッチ (Željko Petrović、1965年11月13日- )はモンテネグロニクシッチ出身の元サッカー選手、サッカー指導者である。2011年の3月~10月まで浦和レッズの監督に赴任。現役時代のポジションはディフェンダー及びミッドフィールダー。その活躍は世界各国に及び、日本の浦和レッズにも1997年から2000年にかけて所属している。もっとも、その間、チーム情勢は徐々に悪化し最終的に1999年に浦和レッズはJ2に降格、翌2000年にはJ2で無双すると思いきや、最終節の延長戦でようやく昇格を決める。

なお、彼はその3ヶ月前にオランダRKCヴァールヴァイクに移籍している。つまり、彼がいなくなったことで幸せが訪れた。

選手時代のチームの成績[編集]

この項目では、彼の選手時代のチームの成績をピックアップする。あわせて、ユーゴスラビアリーグに所属していたディナモ・ザグレブの、1987年シーズンの順位を調べるのに2日かかった件については、正直なところ、思い出したくはない。なお、彼のサッカー選手としての成績は下記に表すとおり、オランダリーグが活動の中心となっており、優勝も経験。その際の成績を受けて浦和レッズへの移籍が行われたものと思われる。選手としての彼の評価は、豊富な運動量と勝負意識の高さが持ち味とされているものの、残念ながらディフェンダーとしては小柄な175センチの彼が世界で一番平均身長の高いオランダリーグ (エールディヴィジ)で一線級の活躍を求め続けるのは少し酷な気もする。けれど、チーム成績が下降気味の状態の中で、士気の高い助っ人としての意味合いはとても大きく、その結果、4カ国7チーム、10回以上にも渡って移籍を繰り返し、同チームへの移籍も多数という、助っ人としてまさに経営陣にとってはありがたい存在だった。人柄もよく、所属したチームへの感謝の心も忘れないため、コミュニケーション能力が不可欠なコーチ職についても、引退後即座に元いたチームで就職できるという、まさに絵に描いたような素晴らしいサッカー人生であったといえる。

その後のことを思えば、特に。

1986-1987 ブドゥチノスト・チトーグラード
ユーゴスラビア1部 … 7位
1987-1988 ディナモ・ザグレブ
ユーゴスラビア1部 … 4位
1988-1989 セビージャFC
スペイン1部 … 9位 
1989-1990 FCデン・ボス
オランダ1部 … 17位(降格)
1990-1991 ディナモ・ザグレブ
ユーゴスラビア1部 … 2位
1991-1992 セビージャFC
スペイン1部 … 8位
1992-1993 FCデン・ボス
オランダ2部 … 2位 (1部リーグへ昇格)
1993-1994 FCデン・ボス
オランダ1部 … 17位 (2部リーグへ降格)
1994-1996 RKCヴァールヴァイク
オランダ1部での2年間の成績 … 8位、11位
1996-1997.11 PSVアイントホーフェン
オランダ1部での1年半の成績 … 優勝、2位
なお、Jリーグ97年シーズン終了後にあたる11月に浦和レッズに移籍
1998-1999 浦和レッズ
日本J1での2年間の成績 前期7位、後期3位 前期13位、後期14位 (J2へ自動降格)
2000-2000.9 浦和レッズ 
日本J2 シーズン途中の9月にRKCヴァールヴァイクへ移籍
最終的にチームは2位 (J1へ自動昇格)
2000-2004(引退) RKCヴァールヴァイク
オランダ1部リーグでの5年間の成績 … 7位、8位、9位、11位

指導者になってからの成績[編集]

しかしながら、人柄のよさとサッカーを指導する上での能力の高さは、残念ながら比例しない。そもそも人柄は良くない。そのため、コーチ職、および監督職としての彼の成績は、微妙。いや、微妙を通り越して、けっこー悪い。しかしながら、その人柄のよさとフロントに対して従順であることが、彼のサッカー人生を大きく切り開いていく。

これは、もしサッカー選手としての職を失えば、国に帰らざるをえず、そしてそこに戦場があったことを思えば、ある意味いたしかたない。いつだって戦争なんてものは全ての世代の人格に影響を与えまくる。

なお、こういった戦績を持つ彼でも、優秀なスタッフさえいれば、十分に上手くやっていけると思われる。しかし、そういった優秀なスタッフをほっておくほど、ヨーロッパリーグは甘い場所ではなく、さらに言えば成績が悪い指導者は常に排除されていくのがヨーロッパリーグというものの本質である。そんな中で、成績が悪い彼が最終的にビッグクラブの監督にまで駆け上がったことは、ある意味奇跡である。

しかし、浦和レッズに、彼を支えてくれる優秀なスタッフがいたかというと、正直微妙。少なくともゼリコよりはましだったが、彼に全幅の信頼を置く選手やキャプテンがいれば、まだなんとかなったかもしれないのだけれど、そちらは、正直に言えばまったく、全然まったく、いなかった。

2004-2005 フェイエノールト
テクニカルコーチ … 4位
2006.08- ボアヴィスタFC 
監督 … 10位
2007-2008 RKCヴァールヴァイク(セカンドチーム)
監督 
2008-2009 RKCヴァールヴァイク
監督 … 2位 (オランダ2部リーグ昇格)
2009-2010
ハンブルガーSV アシスタントコーチ … 7位
2010.08-2010.11 ウェストハム・ユナイテッドFC
アシスタントコーチ … シーズン途中で解任。最終的にチームは17位で降格
2011- 浦和レッドダイヤモンズ
監督 … 解任時16位

ユーゴスラビア紛争[編集]

ゼリコ・ペトロビッチ監督を語る際に、本来なら外すことの出来ない人生の転機がある。1991年から2000年にかけて、彼の祖国を血で染めたユーゴスラビア紛争は、彼の人生に大きな影を・・・落としたと思われる。実際、1991年に発生したクロアチア紛争の発端とされる1990年に行われたディナモ・ザグレブと現セルビアに属する強豪チーム「レッドスター・ベオグラード」との試合が発端となった大暴動の直後に、彼はモンテネグロ人としてザグレブに加入、1年間クロアチア人の仲間達と一緒にプレーしている。

そして、翌1991年6月25日、高まる民族感情の中でクロアチアはユーゴスラビアからの独立を宣言。その直後に彼はスペインのゼビージャへ移籍しているのは、どう考えても今、そこにいたらまずいという判断が彼もしくはチーム関係者からなされた結果だと思われる。ちなみに、欧州の夏の移籍期間は7月1日から8月31日までであり、クロアチア紛争も、当初、散発的な発砲が繰り返されていた中、9月22日にユーゴスラビアから本格的な侵攻が始まり、一気に泥沼へと突き進む。

で、そのユーゴスラビア軍の中核を担ったのがセルビア人で、そのセルビア人と味方同士だったのが、モンテネグロ人。

こういう血で血を洗うような泥沼の悲劇に関しては、多くの元ユーゴスラビア出身のJリーグ関係者も口を閉ざしている。実際、ドラガン・ストイコビッチ名古屋グランパス監督も、内戦の結果、ユーゴスラビアのナショナルチームがバラバラになり敵同士になるという体験をしており、さらにセルビア人として祖国がNATO軍から空爆をされる中で、そのNATO軍を支える欧州で敵地の人間としてサッカーをプレーせざるをえず、多くの心無い差別を味わうという悲劇に見舞われている。

同じことは、ゼリコ・ペトロビッチ監督にも当然起こっている。そして、それは彼のナショナルチームとしての出場試合数がまさにユーゴ内戦と時を同じく(1991年~92年、2試合、1997年~98年、16試合)していることでも証明される。実際、彼が2000年に浦和レッズを離れるとき、必ず監督として戻ってくると誓ったのは、戦争の発端となったとして世界中から非難されている彼と彼の祖国に対して、人種差別意識の無い日本人サポーターが試合ごとにユーゴスラビアコールを行ったことへの感謝の気持ちからである。

ただし、その結果、日本への想いを抱き続ける彼を、どこぞの浦和レッズフロントがその場しのぎ、もしくは一時しのぎとして欧州から引っ張ってくるんだから、世の中は世知辛い

楽しい浦和レッズ[編集]

2011年、彼が就任することになった浦和レッズについて簡単に述べる。

最悪

実際、浦和レッズには大変に素晴らしいとてつもなく素晴らしい、本当に素晴らしすぎて嫌になる不文律が存在する。それこそが、2011年の浦和レッズで語られた「外部の血を極力排除する社風」。これは、古今東西、でかい組織がダメになっていく典型例とも言える話であり、それは2011年どころか、それ以前から浦和レッズの土台を蝕み、破壊し続けている。多分、これからも破壊し続ける。

という話は2011年の浦和レッズでした。

でも、せっかくなので、より詳しく説明する。せっかくなので。

浦和レッズという企業組織が何で出来ているかというと、どこぞの三菱と言われる大企業がトップに立ち、そのトップから子会社である浦和レッズに人員が配置され、その結果、サッカーの知識がない興味がない楽しめない命がかけられない人間がのうのうとサッカーチームの運営の中枢に関わる。しかも大勢。このような組織であっても、基本的に超人気チームである浦和レッズはJ1随一の収益を上げており、潤沢な資金を様々な組織や施設の維持管理に当て、アジアナンバー1とも言える大規模な運営がなされている。

と、言えば聞こえはいいものの。

実際は、J1随一の収入を上げていてすら、2011年には収益は赤字に転落。なぜかって?急激に弱体化してファンが見放したからさ。基本的には闘莉王とこいつが悪いのだが、莫大な収益を得ていた時代に築き上げた莫大な人件費は、その収益が少しでも悪化しただけで、即座に経営を圧迫し、チームの効果的な補強策にすら影響を与える始末。当たり前だ、いらない人員を選手スタッフ関係者含めて抱えすぎているんだから。で、そこかしこにくっついた組織の贅肉はスムーズな運営すら阻害。ただでさえ金の無い補強についても、意思決定に監督の意見が反映されないという素晴らしさ。

何が楽しいって、あじあなんばー1のさっかーちーむが、海外にマトモな選手招聘ルートを持っていないってところが、いろんな意味ですばらしい。

普通、チームが勝てなくなったら、勝てるようにチームを変えていかないと、勝てないんだけどね。

けれど、そんな中でやっちまったのが2011年度Jリーグナンバー1の愚かな移籍ってところがなんともはや。むしろ、Jリーグ史上10本の指に入るほどクソたわけな移籍である。なんせ、チームから離れたくないと訴える選手を、一時の損益を埋めるために中東に移籍させた結果、チームがバラバラになったわけで。しかも、その移籍についても、監督選手ともに寝耳に水。フロントオンリー。

Jリーグ1のお金持ちも随分みすぼらしくなったものである。けれど、安心しましょう。その直後からもっとみすぼらしくなりましたから。

実際、得点力随一の選手がいなくなった結果、チームがまったく点を取れなくなり、戦績も雰囲気もなにもかもが瓦解していく。とりあえず、それまで浦和レッズに存在していた強豪チームという雰囲気が、完膚なきまでに破壊しつくされる。なんちゅうか、まぁ、正直なところ、2011年度ぶっちぎりでJ1最下位を突っ走ったアビスパ福岡並みの弱小チームのオーラがかもし出される。で、そんな浦和レッズ弱体化の一番の原因である三菱から出向してきたフロントが、まったく責任を取ることないというのが実にまったくとんでもなく素晴らしい話である。

他チームにとって。

その上、どう考えても自分達の責任であるチームの瓦解に関する様々な愚策の責任についてまで、次々とチーム関係者へ押し付ける形でクビ。ゼリコ・ペトロビッチ監督も、責任を押し付けられてクビ。当たり前。

その結果、同じ浦和レッズの釜の飯を食ったペトロビッチ監督が無体にクビにされた事実を受けて、レッズOBたちも動揺。ユース監督をトップに昇格させて運営に当たらせるも、その他の役職に浦和レッズで選手生活を送った人間の就任が無くなった。

つまるところ、指導者の伝手をドイツでも失い、今度は浦和OBのほうでも失った。その結果、今度はイングランドやオーストラリアにまで手を伸ばす始末。でも、どう考えてもこれまでに培った悪行を聞けば、名のある監督ほど尻ごみをするわけで。

そんな中でも、まったく何事もなかったかのように、存在しているのが浦和レッズ。

1999年に降格したときの話[編集]

せっかくなので、1999年に浦和がJ2に降格した際に発生した三菱人事タイフーンについて述べる。

分かりやすく言うと、新しい血を否定し続ける浦和レッズには、「S級ライセンスを取得している生え抜きの関係者」がいる限り、外部から監督を招聘しないですませようとし続ける。しかも、短期間のうちに何度でも。しつこく。いやになるほど。その特徴が最も強烈に現れたのが、1999年から2001年にかけてのJ2へ降格した際のゴタゴタであり、S級ライセンスを所持する浦和関係者が使い捨てのソ連兵のごとくに消耗されるという、見ていて悲しくなるような大虐殺が発生。ぺんぺん草も生えないレベルで監督の交代劇が起こる。

順を追って説明すると、2011年の浦和レッズと同じく、1999年の浦和レッズもシーズン開幕直後から低迷し、前期日程の段階で降格の危険がある13位。その段階でまず監督だった原博実氏を解任。その直後にオランダからリーグ優勝経験もあるア・デモス氏を招聘。ここまでは十分に理解できる話である。しかし、そのデモス監督への監督交代も実らず、後期も14位に終わり、最終的に浦和は年間総合順位でJ2に降格。その責任を受けてデモス氏は監督を辞任

この段階から、何かがおかしくなっていく。

デモス氏の後を引き継いだのは、浦和レッズの母体となった三菱重工業サッカーチームからの生え抜きである吉田靖氏。彼はリーグ戦終了後に辞任したデモス氏の後を受けて、ユース監督から昇格。その後、まだ試合の残っていた天皇杯を戦った後、責任を果たしたとして辞任。そこからさらに、翌2000年になってから、同じく三菱サッカー部生え抜きで、川崎フロンターレで監督経験のあった斉藤和夫氏が監督に就任(なお吉田氏はそのままコーチとしてスタッフに残っている)。しかし、ぶっちぎりで勝てるはずだったJ2で思いのほか苦戦し、優勝どころか昇格すら怪しくなってきた2000年の10月に、今度は斎藤氏を差し置いて、ゼネラルマネージャーで1994年に一年だけ浦和の監督を経験した横山謙三氏が総監督に就任。

あぁ、もちろん、三菱のサッカー部出身さ。当たり前じゃないか。

で、斎藤氏は指揮権を返上し、コーチに降格。事実上の辞任。シーズン終了後には、コーチとしても辞任。吉田靖元監督も同じくコーチを辞任。しかしながら、横山氏の指導の下で浦和レッズはからくもJ2で2位になり、J1昇格を決める。けれども、これで終わらないのが浦和レッズ。翌年、横山氏は再度ゼネラルマネージャーに戻るため監督を辞任。新たにブラジル人のミウトン・ケイロス・ダ・パイションこと、チッタ監督を招聘。珍しく浦和及び三菱関係者でないのにはワケがあり、J2に降格し、さらにそこでも苦戦したことで長年続けてきたチームスタイルであるヨーロッパサッカーを捨て去ることをチーム上層部が決意したためである。そのため、戦術を大転換させるために、ブラジルから監督を就任させる。そして、チッタ監督はその期待に答え前期7位と健闘をみせるも、後期に入って早々に相手チームに研究されてチームの勢いを失い、残留争いに巻き込まれる。で、その責任を受けて辞任

だんだん、書いているほうも意味が分からなくなってきた。

普通、「戦術の転換」とか、「チームスタイルの変更」とかいう、チーム全体に混乱と失血を伴う荒療治の場合、少なくとも数年規模で計画を作成し、組織全体を少しずつ替えていかなければならない話なんだけれどね。

その後、新たにチッタ氏が連れてきていたブラジル人コーチ、エジヴァウド・オリヴェイラ・シャヴェスことピッタ監督が就任。彼の活躍でなんとか残留を果たすもリーグ終了を受けてやっぱり辞任

しかし、翌年に招聘した元日本代表監督ハンス・オフト氏は浦和選手の根本的な意識改革に取り組み、見事成功。2003年にナビスコカップに優勝するまでチームを強化する。

で、その優勝の記者会見している最中に辞任を表明。意味が分からなすぎる。いや、まぁ、うん、本当のところ、意味はなんとなく分かる。なんでそんな話になったかも、これまでの経緯でだいたい想像できる。ウィキペディアで調べてもちゃんと、浦和レッズの歴代ゼネラルマネージャーの変遷などでその実証はできる。現場の監督よりも偉いGMが親会社の意向でやってくる以上、どうしようもないわけで、つまるところ、上記の浦和の体質が、あのハンス・オフト監督ですら投げ出すレベルですさまじかったという話、だと思われる。きっと。多分。

それは結局、J2降格後もブラジルサッカーの導入でもオフトによる意識改革の後でも改善されなかった、という話である。選手の意識は改革できても、フロントの意識改革はできなかった。

そして8年が経過する

比較してみよう[編集]

上記に記した三菱人事タイフーンよりもすさまじい事例は、2001年~2011年にかけてのサウジアラビア代表監督の変遷ぐらいしか存在しない。

サウジアラビア代表監督の変遷

  1. 2001 スロボダン・サントラツ(セルビア)
  2. 2001-2002 ナセル・アル・ジョハー(サウジアラビア)
  3. 2002 マルティン・コープマン(オランダ)
  4. 2002-2004 ジェラルド・ファン・デル・ラム(オランダ)
  5. 2004 ナセル・アル・ジョハー(サウジアラビア)
  6. 2004-2005 ガブリエル・カルデロン(アルゼンチン)
  7. 2006-2007 マルコス・パケタ(ブラジル)
  8. 2007-2008 ヘリオ・ドス・アンゴス(ブラジル)
  9. 2008-2009 ナセル・アル・ジョハー(サウジアラビア)
  10. 2009-2011 ジョゼ・ペセイロ(ポルトガル)
  11. 2011 ナセル・アル・ジョハー(サウジアラビア)
  12. 2011 ロジェリオ・ローレンソ(ブラジル)
  13. 2011 フランク・ライカールト(オランダ)

1999年~2009年にかけての浦和レッズ監督の変遷

  1. 1998-1999 原博実
  2. 1999 ア・デモス(オランダ)
  3. 1999 吉田靖(天皇杯のみ)
  4. 2000 斉藤和夫
  5. 2000 横山謙三
  6. 2001 チッタ(ブラジル)
  7. 2001 ピッタ(ブラジル)
  8. 2002-2003 ハンス・オフト(オランダ)
  9. 2004-2006 ギド・ブッフバルト(ドイツ)
  10. 2007-2008 ホルガー・オジェック(ドイツ)
  11. 2008 ゲルト・エンゲルス(ドイツ)
  12. 2009-2010 フォルカー・フィンケ(ドイツ)

けれど、正直なところ、王族の好き勝手で代表がボロッボロになったサウジアラビア代表と互角の争いをしている段階で、浦和レッズというチームが相当きているという話になる。

ペッカー[編集]

そんな形でうれしい楽しい浦和レッズ監督に就任したペトロビッチ監督は、上記のごとくカオスの只中にある浦和レッズフロントから、チームの今年度の方針を聞かされる。曰く「パスサッカー」そして「若手選手の成長」。これは、2009年から2010年にかけて浦和を率いたフォルカー・フィンケ監督も目指したスタイルの継承を意味していた。

・・・ここまではよくある話である。納得できる話である。しかし、その直後、彼は浦和レッズの恐るべき現実を目の当たりにする。

若手選手のパス能力が低い

なお、ここで言うパス能力とは、パスを出すだけではなく、パスをもらう体勢やパスを出させるための動き、さらに、どうやってパスをつないで得点を奪っていくかという思想を含んだ全ての意味で、浦和の若手選手はパスが上手くなかった。もちろん、上手い選手もいる。他チームから引き抜いてきた選手の多くがどういったパスをすれば得点に結びつくかという思想を持っており、実際に相手ディフェンス陣を崩してから得点機会を演出するといった動きが出来る選手は幾人もいた。

ただし、若手にいなかった。まったく、いなかった。とりあえず、ミッドフィルダーでドリブルが上手いことは重要であるけれど、それが2人以上いた状態で美しいパスサッカーを構築するには、少なくとも、クロス及びヘディングの強い選手が必要になるわけだけれど、そういった話すらなかった。

これは、チーム編成の思想が根本的に間違っていたことを意味する。基本的に、毎年全てのチームで生え抜きの選手が出てくる中、一つのユースチームにこだわり続けて才能のある選手をピックアップし続けたら、そらあパス以外の能力が秀でる選手が固まって出てくる年代もあるわいな。普通、そういった場合はある程度の現実な選択として、J2へのレンタルや移籍、もしくはそれに見合った戦術の採用などが考えられる。けれど、実際に要請されたのは、パスがヘタな若手を使ったパスサッカー

このような悪夢を見せ付けられたペトロビッチ氏の起死回生の秘策が、いわゆるペッカーである。

動くな[編集]

パスが下手な若手を起用し続けながらパスサッカーを構築するためには、まず、ディフェンス力を高めなければいけない。これは、多くの持ち駒が香車の将棋をイメージしてもらえればいい。王将角行飛車金将以外、全て香車の将棋がどのような形になるか。しかも、敵陣にいっても裏返らずに戻ってくる香車である。そんな将棋で勝とうと考えるなら、まず穴熊でもなんでも、ある程度、負けない形を構築してから戦わないと戦略的にも戦術的にも手詰まりがある。その結果、浦和の戦法はまずディフェンス重視。華麗なるパスサッカーのために、ディフェンスラインを上げずに選手同士の判断による大きなポジションの移動も制限。その結果、香車のカバーのために大枚はたいて他チームから獲得した飛車と角が動き回るという、本末転倒な話が出てくる。

しかも、何がたまらないかというと、こういった悪夢のパスサッカーを改善するために、もっと多くの手ごまが必要になるにも関わらず、チームの補強を考えるのが香車大好きの浦和レッズのフロントだってところがすでに詰んでいる。FCバルセロナのサッカーが飛車や角行ばかりだと思っているチームが、似たような動きだからと香車ばかりを集めている。

そらあ、監督やってる人間なら近寄りたくねえわ。

動くな その2[編集]

2011年の浦和レッズでも書いてあるように、浦和レッズの根本的な問題である、ゴールをぶち割る攻撃の圧倒的な少なさについても、浦和フロントの決定的な過ちが存在する。

すなわち、ロングボールを上手く受けれる選手がいないと、ロングパスは上手くならない。

その昔、浦和レッズが日本代表フォワードとして活躍した高原直泰選手を飼い殺しにしたのは、決して彼の能力が低かったわけではなく、彼に正確なロングパスを出せる選手が少なかった。そして、彼に向けて正確なクロスを上げられる選手はもっと少なかった。さらに、そういった齟齬を生めるための時間を作らなかったためである。で、その責任を彼一人に押し付けた。としか思えない。間違ってたらすいません。

2011年現在、浦和レッズの辞書に正確なロングパスという文字は無い。

動くな その3[編集]

一般的に、サッカーチームの監督と言われる人々は3種類に区別することが出来る。まず、戦術家。これは、チーム全体の、もしくはキー選手のコンディション、さらに対戦相手に合わせて様々な戦術を駆使し、相手に勝利することを目指すタイプである。例を挙げるなら、元日本代表監督の岡田武史氏や北京五輪代表監督の反町康治氏が挙げられる。次に、アジテーター。これは、戦術的に引き出しは少ないものの選手達の意識を向上させることで、常にトップパフォーマンスを出せるよう状況を整えるタイプである。こちらのほうの例としては、これまた日本代表を指揮したジーコ氏やアルゼンチン代表を率いたディエゴ・マラドーナ監督が挙げられる。もちろん、選手達を鼓舞するだけでは勝利できないため、彼らのようなカリスマで選手を引っ張る監督には、戦術家として優秀なアシスタントマネージャーがくっつくのが相場であり、そういった存在が厳しい場合は、チームのキャプテンが監督の意識と現実の戦術との都合をつけるなんて話も出てくる。

ここまでは、よくある話。もしくは誰にでも想像できる話である。それに、世界の名監督といった存在には、これら2つのタイプを融合させたような存在がいくらでもいる。

しかし、最後に上げるタイプとしてチキンなんて言葉が出てくると、正直なところ、わけが分からなくなると思う。これは、分かりやすく言うと、親会社の手ごまである。恐るべきことに、サッカーチームという存在は、巨大になればなるほどスポンサーが全てを支配する傾向が強くなる。その結果、スポンサーやら上層部の思惑通りにチーム運営を任される監督というものが、実際に存在する。例を挙げるなら、レアル・マドリードの監督がまさにこれに当たる。あのジョゼ・モウリーニョ監督ですら、その思惑からは逃れられない。

もっとも、レアル・マドリードのスポンサーの思惑なんてものはごく単純で、打倒バルサ+リーガエスパニョーラ優勝という、実に単純な、けれど相当頭が痛くなる結果が求められており、たとえその両方をクリアしたとしても、2006年に奇跡的な大逆転優勝を成し遂げたファビオ・カペッロ氏のように、選手もファンも全員契約更新を望んでいたにも関わらず、フロントが優勝するのに苦戦したことを原因として解任。もっとも、そんな悲劇は、実は世界中のビッグクラブにおいて毎年繰り返されている話だったりもする。

付け加えるなら、マンチェスター・ユナイテッドサー・アレックス・ファーガソン監督のように、そういった外野からの声なんざ一切聞く耳を持たずにとてつもない実績を積み重ねた監督も存在する。これは、スポンサーの質もさることながら、ファンからの信頼と選手達の忠誠度といった様々な要因が絡まった結果でもある。

翻って、浦和レッズ・・・。

2011年の浦和レッズを残り5試合まで率いたペトロビッチ監督をタイプ分けするならば、今いる選手達の特徴を鑑みて、現実的な路線を選択する戦術家としてのタイプである。でなければ、ポジションチェンジやオーバーラップを禁止するような戦術を発明できるわけがない。けれど、それはあくまで一時しのぎであり、本当ならば数年をかけて若手を成長させて、ポジションの穴を補強、最終的にスポンサーの思惑に沿った形での強化を目指すといったのが、少なくとも、チームを指揮し始めた時期のペトロ監督の思惑だったと思われる。

しかし、浦和レッズの上層部が、今すぐフロントの思惑に沿った形で試合をして、これからもずっとそれを続けろだなんて話が飛び出した。としか思えないのが、うらわれーーーっず。なお、それ以外の戦術を引っ張ってこようにも、あまりにも選手の手ごまが少ないのもうらわれーーーーっず。その結果、ペトロビッチ監督は最後の最後までフォワードの手ごまの数で苦しむことになる。

最終的に、選手のモチベーションを高めることの出来なかった点も含めて全てペトロビッチ監督の責任である。

ちなみに、生え抜きの若手を主体にしてチームを優勝に導くことは不可能ではない。そういったチームは世界中にたくさんある。けれど、3年連続でイングランドを制したマンチェスター・ユナイテッドの伝説的監督マット・バスビー氏ですら、チームを優勝に導いたのは就任から6年後である。しかも、彼はチームのフロントとことごとく対立した上で、自分の意見を貫き通した結果、偉業を達成している。逆に、チームの上層部の要求を断りきれなかったために、2010~11シーズンのレアル・マドリードは、あのイレブンをあのモウリーニョ監督が指揮したにも関わらず、優勝できなかった。もっとも、あの年はバルサが異常すぎるという点については認める。

結論[編集]

結局のところ、2011年10月20日に解任されたペトロビッチ監督は、明らかに戦犯である。お金を出してくれるファンを納得させるために、そのクビをささげたヒツジである。それは、彼の後を次ぐことになった堀孝史監督についても同じようなものである。なんせ、チーム関係者全員、何が悪いか、誰が悪いか分かっているくせに、それをどうにもできない。それについて口に出すこともはばかられている状況である。

一言、「橋本社長以下、三菱重工サッカー部関係者がチームを私物化したために人件費を圧迫、ろくな補強費も出さずにエースストライカーを赤字の補填のために売却し、さらにチーム方針として無理やりファンにこびる戦術を押し付けたおかげでチームが迷走、成績は急降下。そんな危機ですら、適当に選んだイエスマンたちを順繰りにクビにして、本人達は責任も取らずにのうのうとしている。その上、チームがJ2降格の危機に陥っているにも関わらず、監督よりも上の立場の人間が誰一人そのことに言及しない。これは明らかにおかしい上に、サッカーというスポーツをバカにした話である」。

なんてことは、口が裂けても言えない。本当に、困った話である。

ペトロビッチ監督のその後[編集]

2011年10月に失意のうちに浦和を去ったペトロ監督だったが、2012年2月17日に、ロシアのプレミアリーグに所属する倶楽部、「アンジ・マハチカラ」のコーチに就任することが決まる。同時にロシア代表を指揮した経験もある世界的な名将、フース・ヒディング氏も監督に就任。なお、アンジ・マハチカラはオーナーが世界的な大富豪である超金持ちチームであり、ヨーロッパリーグのトップ選手を、とんでもない金額で獲得することでも知られている。

とりあえず、Jリーグ1の財政力を誇る浦和レッズの数倍の規模の資金源を誇るチームに、どうしてペトロ監督がステップアップできたかは、である。いや、まぁ、なんとなく分かるけれどさ。

なんせ、有能な監督を大金を積んで招聘することはどんな大富豪でもできるけれど、そのオーナーの意向をチームに反映できる人材を探そうとすると、そう簡単には見つからないわけで。で、昨年度のペトロ監督は、確実に世界トップレベルの親会社の意向に従順な反応を示し続けたわけで。

フース・ヒディンク監督の下、新たな知識と経験も学ばず同じ失敗を繰り返して監督については解任されている。ざまあ。

関連項目[編集]