シェーンブルン宮殿

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巨大アパートだけに人が多い

シェーンブルン宮殿(Schloss Schönbrunn)とは、ウィーンにある世界一有名な賃貸アパートである。ウィーン市の南西部、第13区(Hietzing)にある。

前史[編集]

17世紀まで「ウィーン」といえば、現在で言うところのリンク周辺地区を指していた。このリンク地区、実は日本の皇居ほどの大きさしかない。現在のリンク道路付近には19世紀中頃まで城壁がそびえたち、その周囲は緩衝地帯(という名目)でぺんぺん草しか生えていない空き地であった。そこは皇居の内堀に当たる存在であり、ウィーンは城砦都市だったのである。現在のウィーンは、内堀を埋め立てて道路と路面電車を作ったようなもので見てくれは美しいが歴史的にはあまり美しくない。

皇居との違いは、皇居と同じ大きさに政治施設、シュテファン大聖堂、トイレ、ゴミ捨て場、結婚式場、納骨堂、大学、ドブ、乗馬学校、墓地、劇場などが全て押し込めれている点である。18世紀の話になるが、かのモーツァルトでさえ押し込まれた事がある。言うまでもなく王宮も狭苦しく、現在「新王宮」と呼ばれている部分は19世紀の城壁撤去の後に作られたものである。

そこで1707年、ウィーンの外側にもうひとつ城壁を設けて(リニエンヴァル)、街を拡張した。これで「ウィーン」は江戸外堀内と同じ規模になった。しかし内側の城壁はまだあり、王宮が大きくなったわけでもないし、場所ももちろん変わらない。かくしてウィーンは巨大なハコモノ都市になった。

シェーンブルン宮殿完成まで[編集]

シェーンブルンの土地は16世紀にマクシミリアン2世が買い上げ、狩猟を楽しむための庭園として使われていた。その頃から動物園の様相を呈していた。当時どのくらい田舎だったか、これで想像がつく。「シェーンブルン」の名が付いたのは17世紀初頭、「美しい(Schön)泉(Brunn)があるから Schönbrunn ね」という、安直以外の何物でもない命名となった。

この地に目をつけたのがマリア・テレジア(オーストリア大公在位 1740年-1780年)である。政治に戦争にと忙しいマリア・テレジアであったが、特に子作りで忙しかった。16匹も産んだのであるから当然始末に困る。世継ぎ確保と政略結婚の目的があったとはいえ、こんなに子供がいては元々狭苦しい王宮がさらに狭苦しくなる。そこでリニエンヴァルの外にあるだだっ広い空き地シェーンブルンを活用する事を考えついた。「ここに住まわせれば良い。都心は暑いし、夏の離宮って事にしよう」と。

しかし当時の感覚でいえばウィーンの外の外、ただの田舎であり何も無い。そんな所に皇帝の子女だけを住まわせる訳にはいかない。教育係、召使、料理人、それに庭園の動物園の管理係、ウチワを煽ぐ係、庭師、執事、暇な時の道化師、ペットのも必要であり、彼らのオリ住まいも必要になる。夏の離宮にするのなら、皇帝女帝の部屋はもちろんの事、一緒に来る役人達の部屋も必要になる。舞踏会の会場となる広間も、暇つぶしのための劇場も必要だ。でも使用人の居住スペースの方が重要だ。必然的に巨大な建物になり、名目上「宮殿」が完成した。部屋数1400の内半数以上が使用人の居住空間。どう考えてもアパートである。

当初は金閣寺に負けじと金箔を貼り付けるつもりだったらしいが、そんな巨大な建物に金箔を貼ってたら金がかかりすぎるので、さすがのマリア・テレジアも諦めた。苦肉の策があのペンキでせっせと塗り立てた黄色い壁である。晴れた日は確かに美しいが、曇った日の汚さといったら言葉にしようがない。マリア・テレジアも曇りの日には顔をしかめた事だろうが、周囲の人間もテレジア様のセンスに顔をしかめていた。

巨大アパートとはいえ、所詮は部屋数勝負のアパートである。個々の部屋はそれほど大きくない。マリア・テレジアは、狭いアパートではなく動物園で動物を眺めながら食事をとった。

シェーンブルン宮殿のその後[編集]

  • 1805年1809年ナポレオンが率いるフランス軍がやってきて、兵隊のアパートとして使用。
  • 1814年のナポレオン失脚後、8ヶ月にも及ぶウィーン会議のために各国外交団のアパートとして使用。
  • 19世紀後半、狭所恐怖症の皇后エリザベトはシェーンブルンの宮殿はもちろんのこと庭園さえも狭苦しく思ったようで、さらに西にある、リニエンヴァルに匹敵する広大な森・ラインツ狩猟公園に入り浸る。
  • 1898年、通勤電車を走らせるための都市鉄道が開通(現在のU4とU6の一部)、シェーンブルン駅とヒーツィンク駅も開業。
  • 第一次大戦中、ワーカホリックの皇帝フランツ・ヨーゼフはこのアパートで死ぬまで仕事をした(1916年)。
  • 第二次大戦中、ヒトラーはこのアパートをあまり使わなかった。狭くてまっ黄色のアパートが嫌だったんだろう。
  • 第二次大戦後、連合国占領軍(特にウィーン13区を担当したイギリス軍)のアパートとして使用。
  • 占領軍が出て行った後、入居者がいなくなったので、主に公務員向けに賃貸する事になった。現在は陽気なハンガリー人音楽家なども住んでいる。
  • 1961年、フルシチョフ、ケネディと一緒にここの狭い部屋に閉じ込められる。中で何があったか知らないが、怒ったフルシチョフ、仕返しに西ベルリンの周囲に壁を作って閉じ込める。

名称について[編集]

「アパートアパートっていうけど、名前にSchloss・宮殿って付いてるじゃないか」とお思いの方もおられるだろう。

しかし"Schloss"という言葉が曲者である。日本で「城」といえば、軍事機能か政治機能を有する建物を指す。天皇や将軍であっても静養地ならば「御用邸」や「別邸」である。一方ドイツ語では、貴族が使うものならば大抵は"Schloss"だった。日本で言えば庄屋さんの家レベルでも"Schloss"。狩猟の休憩所も"Schloss"。アパートの"Schloss"でも全然問題ない。

関連施設[編集]

シェーンブルン庭園[編集]

さあ、あの丘の上へ行こう!遭難したらその時考えよう!

前述の通り元々は狩猟公園だったが、マリア・テレジアの代にきれいに整備されている。観光客も多いが、晴れた日には中央のベンチを地元のおばあさんが占拠して一日中編み物をしている。さすがはアパート前の公園である。

庭園は意外と広くなく、丘の上にあるグロリエッテまで直線距離では1kmもない。しかし庭園内の道はぐねぐね曲がっており、そしてグロリエッテがある丘は結構高い(宮殿前との標高差47m)。意外とハードであり、安易に歩き始めると途中でへばる可能性がある。ノイシュバンシュタイン城のようにバスや馬車があるわけでもない。途中でへばっても誰も助けないぞ。特に雪が積もると本当に遭難しかねない。地元の人間は重々承知しているのでスパイク付の靴で散歩する。なんの準備もしてない観光客が、地元民の踏み固めた雪の上を歩き、真ん中辺りで後悔するのだが、そんな所で後悔したってどうしようもないのだ。

そのぐねぐね道のあちらこちらに意味不明のモニュメントが配置されている。適当に意味をこじつけて時代劇ごっこやファンタジーごっこをするという素敵なアトラクション設備である。君も古代ローマの英雄になろう。なお地元民が常に散歩しているが、気にしたら負けである。

その意味不明のモニュメントの中に「なんちゃって日本庭園」があった。1873年のウィーン万博で大好評だった日本館や、1893年に日本を訪問した皇太子の影響などで、庭師が適当に作ったのである。八十年の間なんちゃってサムライ達の大切な棲家だったが、頭の固い日本人が見つけてしまい、日本の庭師を呼んで整備してしまった。したがって現在は残念ながら「なんちゃって日本庭園」ではない。

旧迎賓館(現パークホテル・シェーンブルン)[編集]

シェーンブルン宮殿の西に迎賓館を建設された、旧迎賓館。

1907年、当時の皇帝フランツ・ヨーゼフは、シェーンブルン宮殿の西に迎賓館を建設した。外国からの賓客をアパートに宿泊させるのは、さすがに躊躇したのだろう。この迎賓館は現在ホテルになっている。オフシーズンなら案外安い日もあるので、オーストリアに行く予定があるならぜひ宿泊を検討してみては如何だろうか。

世界遺産登録[編集]

このアパートと裏庭は、1996年に世界遺産に登録された。

有名とはいえアパートを世界遺産に登録するとは随分と奇抜な発想だが、20世紀前半に建てられた「ベルリンのモダニズム集合住宅群」(2008年登録)という例もあるので、世界遺産とはそういう基準で選んでいるのだろう、多分。もう十年もすれば東京タワーも世界遺産になるかもしれない。大阪城だってありうる。君が住んでる文化住宅が狙い目かもしれないぞ。

関連事項[編集]

Wikipedia
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