サキ

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ヘクター・ヒュー・マンロー(Hector Hugh Munro、1870年12月18日 - 1916年11月13日)は、サキ(Saki)というペンネームで知られている英国のユーモア作家です。 彼は短編およびエピグラムの作家として最も有名であり、彼の言った「エピグラムが多すぎることよりも悪いことは、エピグラムが足りないことだけだ」はよく引用されてきました。 同時代の多くのユーモリストたちが正当に評価されない一方で、彼を知るほとんどの人が彼の作品を楽しんでいます。 サキの話は主にエドワード朝のファッションを扱ったもので、のんきな始まり方と奇妙にひねくれた終わり方で知られています。ユーモリストとして、サキは主にエドワード朝上流社会の保守主義を風刺することと、さらに付け加えるなら道徳と政治における保守主義の支持者として知られていました。

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「サキ」の項目を執筆しています。

若いころ[編集]

マンローはビルマのアキアブで、植民地での公務を代々行ってきた名家に生まれました。 彼の父親はビルマ警察の監察官であり、ビルマの熱帯雨林で2年間過ごしましたが、その後母親が亡くなったため、イングランドに送還されました。 イングランドでは、彼は祖母と、子供のない未婚のおばと一緒に暮らすことを余儀なくされました。子供のない女性は少なからず狂っていて結婚できず、他人の子供を憎み復讐しようとすることをサキはこの時期に学びました。彼女は彼に「お願いです、どうか」や「ありがとうございます」を言い、一日に5回入浴することを強いたのです。彼はまた、彼女の手紙の口述筆記もやらされていました。ハイド・パークや他の場所にある彫像の、卑猥に露出した足首への抗議の手紙です。 当然ながら彼らの保守的な態度やものの見方はマンローと合わず、彼は情熱をもってそれらを憎みましたが、10年の間彼らの影響のもとに居続けねばなりませんでした。

植民地での「奉仕」[編集]

サキはグラマースクールを出たのち、喜びを胸にインド帝国警察に入りました。辛い幼年期からの脱却に成功したのです。 彼はビルマに赴任して父親の足跡をたどり、帝国に奉仕しました。現地の人々を支援しつつ、英国人であれば彼らの人生はもっとマシだったろうと考えました。余暇には自然と野生動物について愛情をもって叙述し、ビルマの先住民の味覚やファッションセンスの欠如について不平を言いもしました。 彼はまた、ペルシャの哲学者で数学者であるオマル・ハイヤームの『ルバイヤート』を知りました。アルコールセックスの悦びやユルユルな精神性を描いた作品で、彼のペンネーム「サキ」を思いつくもとになったものです。

マンローの英語の教え方が同僚によって評価され、彼は1896年にと先住民の英語教育委員会の委員長に任命されました。彼の最初のプロジェクトはビルマの象と先住民に韻を踏んだ風刺的な小話を作るよう教えることで、それは失敗しました。 彼は次のプロジェクトをより簡単にしました。エピグラムに重点を置いたのです。今度は韻を踏まなくてよく、ただ面白ければいいはずでしたがこれも失敗して、彼は先住民が充分な知性を持たないために文民らしいことをするには向かないのだと結論付けました。実際に彼らがひねり出した中で最も面白いものは「田んぼは干ばつの前に灌漑せねばならない」でした。

ロンドンで[編集]

マンローは1898年にロンドンに戻り、いくつかの有名な新聞のジャーナリストとして働き始めました。彼はその家柄と職業ゆえに、エドワード朝の上層階級の社交界に頻繁に出入りし、彼らの夕食会に定期的に参加できたのです。 彼は気の利いたエピグラムでその場をわかせ、翌朝にはうってかわってコラムで彼らを風刺しました。サキが風刺した人々の多くがどういうわけか、彼が誰か他の知り合いについて書いているのだと思っていたので、サキは人気者のままでした。彼らはサキを多くの狩猟パーティーに招待し、そこで彼らはみんなして、乗馬を楽しむ労働者階級の人々を追いかけて撃つのでした。モーニング・ポストの編集者は、サキが毎週月曜日にエチケットとファッションにうつつをぬかすエドワード朝の人々を風刺するコラムを書くことに喜んで同意しました。サキは毎週火曜日に「オートクチュール」という別のコラムを持っていました。そこではエドワード朝上流社会の有名人が最近犯したファッションでの大失敗を晒し、トレンドに逆らう人々を喜ばせました。 結局のところ、サキが言うように、「趣に欠けるのも、みすぼらしすぎるのも、――まあ今言ったのは同じようなことかもしれませんが――、あなたのフロックコートに似合わないネッカチーフをつける理由にはならないのです」。

サキはコラム以外にも、短編をいくつも書いていて、ウィットに富んでいて生産性のないダンディーな若者をしばしば主役に据えています。彼の創造したいちばん有名なダンディーはレジナルドとクローヴィス・サングレールで、彼らは伝統がちがちのご長老を怒らせ、トレンドに逆らう人々を楽しませます。『クローヴィス・クロニクル』などの愉快な短篇集やアンソロジーが後世に残りました。今日のよりオープンな読者によって、彼のキャラクターは過度に甘美になることでしょう。しかし、執筆当時の読者、控えめなはずのエドワード朝の人々にも、彼らは受け入れられていたのです。

海外特派員として[編集]

サキは1902年から、モーニング・ポストの海外特派員としてロシアに派遣され、ロンドンの上流社会で味わった快適さとうってかわって、ロシア農民の苦しみを目にすることになりました。特に1905年のロシア革命の、繰り返される血の海の中で。農民にはファッションセンスが欠如しているにもかかわらずサキは彼らに同情し、他の「合理的な」英国人たちと同じく、ユダヤ人社会主義のせいにしました。 社会主義者たちは、革命に対し責任がある、多分ユダヤ人も、と彼は言ったのでした。まあ、彼らはいつだって疑われていたのです。サキのコラムに若干の政治的性格がないわけではなく、彼は常に「ロシア人は政治について話す方法をまだわかっていない。税率や、農業に関する最新の法案など、絶対に良い話題があるときに、死と破壊について話すのはひどく不適切だ」という意見でした。

サキのロシアでの経験は、短編小説や、家具のチョイスに不満なロシア王室の人々に対処するレジナルドが出てくるアンソロジーなどに生かされました。レジナルドが室内装飾に対して抱いた「ルイ15世風にしようとして始めたものの、思い直してヴィルヘルム2世にちょっと寄せてきている」という印象は風変わりですが、依然としてエドワード朝の上流階級の人々には人気でした。 どうやら誰もが明らかに、「ロシア王室の美的感覚は倒錯しているので、ラウンジに置くソファを選ぶセンスは絶望的に決まっている」という共通認識を持っていたようです。

大戦へ[編集]

健康問題を抱えてサキは1908年に英国に戻りました。ロシアでの凄惨な体験によっていきり立ち、すっかり変わってしまったサキのコラムや短編は、ますます政治色を強めました。彼は、社会主義、人種、女性参政権 、植民地化への努力、戦争バーナード・ショーの目ざわりなヒゲなどの問題を含め、あらゆる面で政治的・道徳的な意見を述べる必要があると思い至ったのです。複数の短編小説が、バーナード・ショーのファッションセンスと馬鹿げたリベラルな思想を嘲笑することに捧げられました。彼はまた、子供のいない女性は狂っており結婚できないので、投票を許されるべきではないとも主張しました。 明らかに、彼女らの政治への参加が許可されれば、女性は料理などのくだらないことについて政治家に議論を強いるだろう、とサキはいくつかの短篇で警告しています。「女性に投票をさせることは、猿に車を運転させるようなものです。猿に車を運転させるようなことを他に知っていますか? 女性に車を運転させることです」と彼は言います。

ユダヤ人に対するサキの意見は、『反安静療法』という有名な短編にうかがえます。 この中でクローヴィス・サングレールは、「信じられないほど気が利いていて」「おかしな」エピグラムを用いて、ユダヤ人の小規模な一掃計画を話しています。 サキはまた、ドイツとの戦争を強く提唱しました。ホーエンツォレルン王朝の社会主義者たちが、おそらくユダヤ人でもあって、彼らのエリート主義的な左派理想を古き良きイギリスに強制しようとしていると思ったのです。

第一次世界大戦[編集]

英国がユダヤ人と彼らの社会主義の手に落ちるのを防ぐために、サキは明らかに年をとりすぎているにもかかわらず、ボランティア活動を行いました。 彼は男らしい勇敢な戦士であることが証明され、下士官が達成可能な最高の地位につけてもらえました。ジジイではありましたが、ファッションやインテリアデザインの趣味の良さは残っていました。 彼の上司もこれを認め、兵士の士気高揚のために、もっともファッショナブルなカーペットとひだつきカーテンで塹壕を飾らせました。 彼らが塹壕を十分に素早く掘れなかったとき、インテリアデザインは床の上でただの変な敷物になりました。 塹壕が崩壊したときに逃げることができなかった数百の兵士の腐敗死体とともに、洞穴に埋められた彼のデザインの多くは、今日でも見ることができます。 彼の死の前、サキは余暇の大部分を家へ送る手紙の執筆に割き、彼の指揮下の若い兵士の礼儀が欠如していると不平を書きちらしました。 彼が名のる前に話しかけてきたとか、 労働者階級の人が"je ne sais pas (フランス語で、「知りません」)"と "je ne sais quoi 「言えません」"の違いがわからなかった、などです。

ある寒い冬の朝に、巡回しながら他の兵士と一緒にバードウォッチングをしていた時でした。サキは彼の最後の言葉を彼の仲間に発した直後、ドイツの狙撃兵に撃たれました。「おい!そのタバコの火を消せ!」とサキは最後に言ったのです。エピグラムにしては短すぎましたが、そういう状況下にしては気が利いているかもな、と彼の同僚の兵士は思いました。

後に残ったもの[編集]

サキの短編小説は、彼のことを知っている少数の人々には依然として愛されています。また、ディナーパーティーでみんなに感心してもらうのに使える引用も残っています。 一方で、ユダヤ人根絶についての短篇は、現在の学界では、彼の時代に流行した反ユダヤ主義の風刺であることが普遍的な合意となっています。社会主義や平和や女性の権利にひそむ危険を訴える作品はすべて、エドワード朝の保守的な見方からなら当然生まれうる風刺です。そうでないと思う人は、ユーモアのセンスがない人です。多くの学者は、偉大なユーモリストが彼の人生を終えるときにいつも言いまくっていたエピグラムを添えられなかったのが残念だと述べます。オスカー・ワイルドが「このカーテンは私を殺そうとしているんだ。どちらかが死なねばならない」と言い遺すことで、インテリアデザインの趣味の良さをひけらかしながら、とても気が利いていて忘れがたいようにするという目的を果たしたように。

この記事は、en:Sakiから翻訳されたものです。
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