アーサー・マッカーサー・ジュニア

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アーサー・マッカーサー・ジュニア(Arthur MacArthur, Jr.、1845年6月2日 - 1912年9月5日)とは中二病の夢を叶えたアメリカの偉人である。

無能な軍人として[編集]

イギリスから移民してきて、ウインシスコン州知事になった貴族のアーサー・マッカーサー卿の長男として生まれる。

貴族のお坊ちゃまとして好き勝手に育ち、中学を卒業すると南北戦争に行きたいとわがままを言い出して親を困らせる。

お父さんは仕方が無いので、州知事の権力で第24ウィスコンシン義勇歩兵連隊(約三千人)を護衛に付けて出征させた。 チカマウガの戦い、ストーンズリバーの戦い、第三次チャタヌーガの戦い、アトランタ方面作戦、フランクリンの戦いと歩兵連隊は四千人以上の戦死者を出しながら激戦地ばかりに行きたがるお坊ちゃまに振り回され続けた。

兵隊が減ると息子が心配なお父さんが補充していたので、定員よりも多い死人が出ても人数は減っていない。 いい加減に息子に返ってきて欲しかったお父さんは、州知事の権力で当時19歳の息子にウィンシスコン・カーネル(名誉大佐)の地位を与え、周りに少年大佐(The Boy Colonel)と呼ばせた(なお、未だに19歳の名誉大佐は他にいなく、最年少記録である)。さらには、アメリカ議会にまでコネを使って名誉勲章を授与してもらい、ジュニアを称える「オー・ウィンシスコン」という歌まで作られた(この歌は現在でもウィンシスコン大学の校歌になっている)。困った息子はやっと満足したのか、戦争ゴッコに飽きたのか家に帰ってきたそうである。

中二病の悪化、後継者の誕生、そして自己実現[編集]

家に返ってくると、親の後を継ぐために親のコネで法科大学に入学したが、「戦争やりたい」とか「ああ、人刺してえ」とか痛すぎる中二病発言に周りが困惑、困ったジュニアはとうとう、学校を辞めてしまい、1866年2月23日に第17師団にアメリカ陸軍少尉として軍務に復帰した。復帰した翌日には中尉に9月には大尉に昇進、クリスマスには少佐になっているはずだったが、ここで、困ったことが起きてしまった。出世の原動力だった父親が選挙で落選して州知事から「タダの人」になってしまったのである。出世の原動力を失ったジュニアは20年間は大尉のまま放置されることになった。

この間、各地の駐屯地をたらいまわしにされながら、子作りに励み、五人の息子を作っていたが、長男は父親みたいにだけはなりたくないと、海軍士官学校へ、次男はお爺ちゃんみたいに立派な政治家になろうと、真面目に法学の勉強をして弁護士に、四男は幼くして病死、五男は銀行員として真面目に働いた。程度の違いはあれ、父親を反面教師として、それぞれ自立した人生を選択しており、その意味では、ジュニアは立派な教育者であったと言えるだろう。

しかし、三男のダグラスだけは父親の中二病遺伝子を強く受け継いでいたのか、親の痛い活躍話しを真に受けて、お父さんみたいな痛い軍人になろうと本気で頑張った。しかも、父親と同じ道を進むのならば同じ轍は踏ませたくないと思った母親が、ダグラスの教育に過剰介入。ほかの兄弟のように父親を反面教師として自立する機会を奪われたダグラスは、むしろ父親より痛い中二病を発症させ、立派な後継者となる。彼こそ、後の日本植民地総督ダグラス・マッカーサー元帥である。

ジュニアは暇を見てはインディアン戦争に参加してインデアンたちを虐殺。のちにウルトラマンを悩ませる酋長怪獣ジェロニモをタイマン勝負で打ち破り、捕らえることに成功した。
「戦争やりてえ」という中二病的願望は、ジェロニモを破り、人々に称賛されることで満たされ、英雄になったジュニアは何と中佐にまで昇進。普通なら、これで燃え尽き、人格も安定するはずだ。しかし、ジュニアは「オレってやっぱスゲー」と思い込み、「もっと戦争やらせろ、もっと人刺してえ」とむしろ中二病をこじらせてしまうのである。

フィリピン・ドリーム[編集]

20年も厄介者としてたらいまわしにされた揚げ句に、中二病をこじらせたジュニアに、20年ぶりに転機が訪れる。オヤジさんが共和党の推薦を受けて、副大統領候補として選挙に立候補したのだ。

ジュニアはこれはチャンスと、同じ共和党のジョージア州知事にねじ込んで、ジョージア第三連隊の参謀に就任、すぐに師団長を追い出して自分が師団長になると、フィリピン戦争に参加、独立と自由を求めるフィリピン人を虐殺しまくった。しかも、ジュニアはこの戦争で思わぬところから活躍することになった。フィリピンの指導者であるエミリオ・アギナルドを生け捕りにすると、拷問なんてひどいことはせずに、ロボトミー手術を行い「アメリカトモダチ、ミナサンアメリカノイウコトキキマショウ」と繰り返すだけの操り人形に改造して友好関係を演出することでマニラ軍の士気を挫いて抵抗運動を収束させた。

ジュニアは功績が認められフィリピン駐留アメリカ軍司令官となり、実質的なフィリピンの植民地総督となる。お父さんは副大統領選挙に落選していたが、こうなってしまえば、もう、親のコネなど関係無しである。

中二病将軍に植民地総督になられて困ったのはアメリカ軍と大統領であった。どうにか厄介払いしようと、悩んだ末、駐日アメリカ大使館付き駐在武官として日露戦争を観戦に行かせたのであった。この当時のアメリカでは日本がボロ敗するはずだと確信していたので、どさくさにまぎれてロシア軍に殺されて帰って来るなという意味だった。[1]息子のダグラス・マッカーサーも副官として付いてきているが、これは息子も帰って来るなという親子に配慮した振りをした遠まわしな島流しのつもりだった。
しかし、必殺トウゴウ・ターンが炸裂、予想の斜め上を逝く超展開で日本が勝利してしまうと、なにもしてなかったジュニアは、俺様のおかげで黄色い猿どもが勝てたと吹聴して、ますます、大意張りでアメリカに帰って来たのであった。

大統領はなんとか、窓際に席を用意して中将の位を与えてジュニアを飼い殺しにした。 ジュニアは最期まで自分の中二病伝説を人に語り続け、南北戦争退役軍人同窓会で自らの中二病伝説を語る演説中に壇の上で心臓発作を起こして倒れ67歳で死亡した。

なお、ジュニアの中二病遺伝子は息子のダグラスに受け継がれた、その物語はダグラス・マッカーサーを参照されたし。

マッカーサー家のその後[編集]

マッカーサー家の家長はアーサー・マッカーサーと決まっており、代々の長男は全員アーサーと命名されていたが、アーサー三世が早死にして、三男のダグラスが一番偉くなってしまったため、ダグラスの長男がアーサー四世になってしまい、アーサー三世の三男がダグラス二世になるという、ねじれ現象が起きている。アーサー四世も中二病遺伝子が強かったのか、親の意向で議員になるべく法学部を卒業したのに、「俺はミュージシャンになる」と言い出してそれっきり無銘のまま野垂れ死にしている。

なお、アーサー四世には風俗嬢との間に息子がいて、彼がアーサー五世である。マッカーサー元帥の取り巻きだったギャングたちはマッカーサー家を復活させようとこのアーサー五世の母親に金を握らせて名義だけ会社の重役の地位を与えたり、アーサー五世を陸軍士官学校にねじ込んだりしたが、どうにもならないほど馬鹿で困り果てたそうである。最期はどこかのお坊ちゃまのように選挙にだしてみたりしたが、同じ選挙区に外交官の父親を持つ立派なダグラス・マッカーサー三世が立候補してしまい、ボロ敗けしている。

因みに、古英語(もっと正確に言えば、古スコットランド語)においてマッカーサーという姓が意味するところは「アーサーの倅」。 アーサー・マッカーサーとは「アーサーの倅のアーサー」という意味になり、非常にややこしい。さらに「アーサー王の子孫」を意味するという説もあり、それならば、マッカーサー一族に受け継がれる中二病遺伝子の祖はアーサー王ということになる。

リファレンス[編集]

  1. ^ 日清戦争を観戦にいった駐在武官は副官共々中国人に殺されて海に捨てられてしまい、帰ってこなかった。
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